2017年3月
3月 2月 1月 2016年

2017年3月


 小森 和夫氏(こもり・かずお=旭エージェンシー創業者)

29日午前4時2分、急性腎不全のため岐阜市内の病院で死去、89歳。揖斐郡大野町出身。自宅は大垣市赤坂町3218の1。通夜は30日午後7時から、葬儀・告別式は31日午前11時30分から、いずれも大垣市小野3の47の1、メモリア大垣で。喪主は長男基弘(もとひろ)氏。
 1947年に岐阜新聞(旧岐阜日日新聞)に入社。73年に退職し、岐阜日日西濃広告(現旭エージェンシー)を創業。2001年まで社長を務めた。



 細江 茂之氏(ほそえ・しげゆき=細江茂光岐阜市長の父)

28日死去、101歳。益田郡中原村(現下呂市)出身。自宅は岐阜市伊奈波通1。通夜は29日午後7時から、葬儀・告別式は30日午前11時から、いずれも岐阜市月ノ会町1の7、セレモニーホール野々村で。喪主は長男茂光(しげみつ)氏。



 安田 忠亮氏(やすだ・ただあき=元中津川市立苗木小学校長)

25日午後8時26分、肺炎のため中津川市の病院で死去、93歳。加茂郡川辺町出身。自宅は中津川市苗木2639。通夜は27日午後7時から、葬儀・告別式は28日午前10時から、いずれも中津川市瀬戸1192の4、ユーワン苗木斎苑で。喪主は女婿朝生(あさお)氏。
 中津川市立落合小学校長なども務めた。



 堤 清正氏(つつみ・きよまさ=元久々野町議会議長)

25日午前6時51分、老衰のため高山市の特別養護老人ホームで死去、93歳。高山市出身。自宅は高山市久々野町久々野1314。通夜は27日午後7時から、葬儀・告別式は28日午前11時から、いずれも高山市下岡本町1365の3、JAひだ葬祭センター高山で。喪主は長男精二(せいじ)氏。
 1975年4月から旧久々野町議を5期20年務め、議長を4年間務めた。



 土方 久博氏(ひじかた・ひさひろ=元恵那市教育長)

25日午前6時40分、気管支肺炎のため恵那市の病院で死去、80歳。恵那市出身。自宅は恵那市東野1430。通夜は26日午後7時から、葬儀・告別式は27日午後2時から、いずれも恵那市東野74の1、とわホール本館で。喪主は次女の夫宏治(こうじ)氏。
 恵那市立恵那西中学校長も務めた。



 横山 公哉氏(よこやま・こうさい=元県立岐陽高校長)

25日午前3時25分、肺がんのため各務原市の病院で死去、86歳。岐阜市出身。自宅は岐阜市北一色7の15の23。通夜は26日午後7時から、葬儀・告別式は27日午後1時から、いずれも岐阜市鶴見町18、鶴見岐阜斎場で。喪主は長男卓哉(たくや)氏。



 原 實氏(はら・みのる=元郡上郡八幡町立相生小学校長)

23日午前11時56分、肺炎のため岐阜市の病院で死去、88歳。郡上市出身。自宅は郡上市八幡町島谷1314。通夜は25日午後7時から、葬儀・告別式は26日午前11時から、いずれも郡上市八幡町小野2の3の13、メモリアルホール紫苑で。喪主は長男明(あきら)氏。
 八幡町立口明方小学校長も務めた。



 葛西 弘氏(かさい・ひろし=元十六銀行常務)

23日午前10時25分、岐阜市敷島町9の54の自宅で死去、74歳。岐阜市出身。葬儀・告別式は近親者で済ませた。喪主は長男利彦(としひこ)氏。



 角竹 弘氏(すみたけ・ひろし=元岐阜市立藍川中学校長)

23日午前1時5分、肺炎のため死去、87歳。高山市出身。自宅は岐阜市錦町6の37の2。通夜は24日午後6時から、葬儀・告別式は25日午後1時から、いずれも岐阜市六条大溝1の2の3、アスピカホール六条で。喪主は長女嶋崎真理子(しまざき・まりこ)さん。
 飛騨市の旧山田小(現神岡小)の校長を務めたほか、県内の郷土史研究に力を注ぎ、1983年4月から2年間、県歴史資料館長を務めた。



 肥田 舜太郎氏(ひだ・しゅんたろう=医師、日本原水爆被害者団体協議会顧問)

20日午前8時2分、肺炎のため埼玉県川口市の埼玉協同病院で死去、100歳。葬儀・告別式は26日午前10時半からさいたま市浦和区瀬ケ崎3の16の10、さがみ典礼北浦和葬斎センターで。喪主は長男泰(ゆたか)氏。
 中津川市の旧中津川村で庄屋をしていた家系の生まれ。祖父の代まで市内に居を構えており、今も先祖代々の墓が残る。原爆の恐ろしさを伝える講演で市内を訪れたこともあった。
 1945年8月6日の原爆投下当時、軍医として広島に赴任しており、爆心地の北約6キロ地点にいた。その直後に市内へ入り、焼けただれさまよう人らを救助するとともに、治療に当たった。
 その後も、白血病などの後遺症に苦しむ被爆者たちにも寄り添い続けたほか、内部被ばくによって体がだるくなる症状を「ぶらぶら病」と呼んで危険性を指摘した。
 「広島と長崎は今も生き地獄を見せて世界に警告している。真実を伝えるのが被爆者の使命だ」として、75年に初めて原爆を投下した米国を訪問。89年までの15年間で30カ国以上、150都市以上を「草の根の反核語り部」として駆け巡り、原爆の悲惨さを訴えた。
 原爆症認定訴訟では原爆投下後に広島、長崎市内に入った被爆者について、残留放射能やほこりを吸い、体内に入る放射性物質による内部被ばくの影響について証言をした。
 2011年に発生した東日本大震災による東京電力福島第1原発事故でも、内部被ばくの脅威を訴えた。13年にも都内で脱原発を求める集会に参加するなど、被爆者治療の傍ら、核廃絶を求める発言を続けた。



 川島 秀雄氏(かわしま・ひでお=カワボウ、カワボウ繊維会長)

14日午前2時25分、岐阜市内の病院で死去、85歳。岐阜市出身。通夜は16日午後6時から、葬儀・告別式は17日午前11時から、いずれも岐阜市月ノ会町1の7、セレモニーホール野々村で、川島家とカワボウの合同葬として行う。葬儀委員長は岡本、ナベヤ会長の岡本太右衛門氏。喪主は長男政樹(まさき)氏。
 川島氏は、川島紡績(現カワボウ)の第2代社長精市氏の長男。慶応大卒業後、1954年に川島紡績に入社。専務などを経て、83年に社長就任。社名をカワボウに変更し、メーカー志向から脱皮して企画提案型企業に発展させた。
 繊維不況の中、本社紡績工場を移転し、跡地に専門店街を持つ大型ショッピングセンターの先駆けとなる「マーサ21」を88年にオープンさせ、先見性と革新性を発揮した。2009年にカワボウ、カワボウ繊維の代表権のない会長に就き、近年は病気療養中だった。
 93年から19年間にわたって務めた県繊維協会会長、日本繊維産業連盟県支部長として業界の発展に貢献。県産業教育振興会理事長など社外でも多くの要職を歴任した。2000年に岐阜新聞大賞を受賞。77年から06年まで岐阜放送取締役を務めた。



 笠井 澄武氏(かさい・すみたけ=元加茂郡七宗町立神渕小学校長)

10日午前11時39分、胃がんのため美濃加茂市の病院で死去、91歳。七宗町出身。自宅は七宗町神渕1304の4。通夜は12日午後7時から、葬儀・告別式は13日午前11時から、いずれも美濃加茂市蜂屋町中蜂屋3703の1、JAセレモニー恵昇苑みのかもで。喪主は長男哲也(てつや)氏。



 小林 芳郎氏(こばやし・よしろう=大阪教育大名誉教授、心理学)

9日午前7時53分、大阪府寝屋川市の病院で死去、82歳。岐阜県出身。自宅は大阪府枚方市。葬儀・告別式は近親者で済ませた。喪主は妻和子(かずこ)さん。


ページTOPへ