各務原飛行場の訓練兵「辞世の句」残す 岐阜基地で公開 − 岐阜新聞 Web
各務原飛行場の訓練兵「辞世の句」残す 岐阜基地で公開
2017年08月15日09:03
写真:各務原飛行場の訓練兵「辞世の句」残す 岐阜基地で公開
岐阜基地で公開されている「辞世の句」の一部。「懐かしき木曽川さようなら」という句もある=先月27日、岐阜県各務原市
写真:各務原飛行場の訓練兵「辞世の句」残す 岐阜基地で公開
今村良雄さん(舟橋嘉子さん提供)

 太平洋戦争末期の1945年、敵艦に体当たりする特攻の出撃に向けて、各務原飛行場で訓練を重ねた10代の若者たちがいた。今年6月に航空自衛隊岐阜基地(各務原市)で展示を始めた辞世の句からは、旧陸軍の特別幹部候補生(特幹(とっかん))と呼ばれた制度で駆り出された若い隊員と、その上官の悲壮な思いが読み取れる。

 岐阜基地正門近くにある旧将校集会所。築100年近い木造建築を利用した広報館内のガラスケースに3幅の辞世の句が納められている。

 <夢に見し とつくに(=外国)ふねの 真中に 愛機もろとも 體(たい)あたるらん>

 <日の本の 男の子と吾も うたわれん いづこの空に 砕け散るとも>

 「必成隊」「必勝神翼隊」などの隊名とともに19人が書いた。今村良雄さんら教官役の隊長2人が愛知県犬山町(現犬山市)の豆腐店に下宿していた縁で、同店に残されていた。

写真:各務原飛行場の訓練兵「辞世の句」残す 岐阜基地で公開
交流のあった元特攻隊員から届いた手紙や年賀状を手にする舟橋嘉子さん=6日、愛知県一宮市

 「父が『ちょっと書いてけ。家族に届けてやるから』ってね」。当時16歳の舟橋嘉子さん(88)=同県一宮市=によれば、隊員らが各務原を去るにあたり、仏間に墨筆と紙を用意させたという。

 父の故山田宗吉さんと母いとさんは、教官の今村隊長を慕って遊びに来た隊員たちに、どこからか工面した米やうどんを振る舞った。米おけが空になっても「わしらは芋を食べればええ」と話したという。

 元隊員の石原豊さん(92)=熊本県山鹿市=は、19歳で特幹1期生に志願し、大刀洗陸軍飛行学校(福岡県)を経て各務原に。「どの道、兵隊に行ったなら亡くなるのが当たり前の時期だった」と「若櫻(ざくら)」とだけ揮ごうした。

 訓練に使われたのは、速度の遅い練習機で、第一線の飛行機はすでに残っていなかった。「それでも行かんとどうしようもない。死にに行くだけですよ」

 同じく隊員の故三好五郎さん=大阪府八尾市、終戦時16歳=は、各務原の様子を「宿舎は(空襲で)焼け、時には艦載機のグラマンが襲って来ることもありました。(中略)そんな中でも訓練は続行されました」と手記につづった。

 「甘木五中隊史」によると、45年5月ごろ、特幹1期生らで「待機特別攻撃隊」(と号隊)が計86隊(1隊6機)編成された。南方や沖縄向けではなく、本土防衛が目的だった。このうち24人が各務原で訓練したとみられている。

 8月初旬には三重県の北伊勢飛行場に移動し、標的を目がけて急降下して地上すれすれで急上昇する訓練を繰り返した。

 そして終戦。幸い隊員たちが出撃する機会はなかった。辞世に〈俺れ達 滅しても 国体滅せず〉と書いた今村隊長は宗吉さん宅に戻ると、「死に損なった。行くところがない」と頭を抱えてうずくまったという。複数の同期生を沖縄などの特攻で失っていた。

 戦後も同世代の隊員たちと文通を重ねた舟橋さんは言う。「生き残っても悩み、苦しんだ人がいた。戦争の哀れな姿を忘れてはいけない」

 広報館の見学は予約が必要。問い合わせは岐阜基地の基地渉外室、電話058(382)1101。

 【陸軍特別幹部候補生】 旧制中学3年程度の学力の15〜19歳を下士官に養成する制度として創設され、1944年4月には大刀洗陸軍飛行学校(福岡県)に操縦の1期生約3千人が入校した。短い養成期間で早く戦場に送り出すのが狙いで、同年7月以降、各教育隊を経て南方などに送られたほか、整備に転じて岐阜陸軍航空整備学校に分遣された候補生もいたとされる。