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エンタメ・フロントライン/2017年10月26日 15:49
「村上春樹を読む」(73)「リアリズム・モードをうまく破る」「村上春樹とカズオ・イシグロ」
「村上春樹 雑文集」(新潮社)の表紙
 

 今回の「村上春樹を読む」は、ノーベル文学賞受賞が決まったカズオ・イシグロの作品と、村上春樹の作品の響き合うところについて、考えてみたいと思います。カズオ・イシグロは、日本でもたくさんの読者を持っていて、同賞受賞決定後の増刷分だけで100万部以上となり、累計発行部数は200万部を超えています。カズオ・イシグロのような作家の本が、たくさん読まれるのは喜ばしいことですね。

 受賞決定直後の記者会見で「世界の偉大な作家が受賞しておらず、私がこの場にいることには少し罪悪感も覚える」と述べ、その偉大な作家として「すぐに頭に浮かんだのは村上春樹氏の名前だった」と話していたカズオ・イシグロの姿も印象的でした。

 私も文学担当の編集委員ですので、受賞が決まった直後、すぐにカズオ・イシグロの文学について記事を書いたのですが、書き上がった原稿が配信されたころに、その記者会見の映像がテレビ放送されて、それを見ていて、現代を生きる作家同士として、カズオ・イシグロが村上春樹に対して、同じような問題意識を持って、書き続けている作家として、とても尊敬しているのだなと思いました。

 その村上春樹もカズオ・イシグロも作品が発表されるたびに、世界中で読まれる作家ですが、カズオ・イシグロが文芸誌「文學界」の2006年8月号のインタビューで、村上春樹作品が世界中で読まれる理由として、村上作品の特徴は「リアリズム・モードをうまく破ることができる」ことだと述べ、この「リアリズム・モードをうまく破ることができる」作家としてカフカやベケット、ガルシア・マルケスとともに村上春樹の名前を挙げていました。

 その「リアリズム・モードをうまく破ることができる」のはイシグロ作品の特徴でもあると思うことを記事に書きました。私は何冊か村上春樹に関する本を書いているのですが、最初に書いたのが『村上春樹を読みつくす』(講談社現代新書、2010年) という本で、その最終章をカズオ・イシグロの村上春樹作品に対する「リアリズム・モードをうまく破ることができる」という言葉を紹介しながら書いたので、カズオ・イシグロのことが、村上春樹とつながる形で、自分の頭の中にあったのだと思います。

 お互いを尊敬しあう作家同士。村上春樹もカズオ・イシグロのノーベル文学賞の受賞決定を喜んでいるだろう、という言葉で、記事を書き上げました。

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 村上春樹がカズオ・イシグロについて、記している言葉を紹介しながら、今回の「村上春樹を読む」は、この「リアリズム・モードをうまく破ること」について、考えてみたいと思います。

 村上春樹は、2001年にカズオ・イシグロが来日した時に会ったのが最初のようですが、村上春樹のエッセイの類を読んでいると、よくカズオ・イシグロのことが記されています。例えば、2003年に刊行された『村上春樹編集長 少年カフカ』という長編『海辺のカフカ』(2002年)の刊行直後の読者とのインターネットメールによる質問への応答集の中に「カズオ・イシグロさんのこと」という応答があって、そこで次のようなことが記されています。長いですが、そのまま紹介してみましょう。

 「この前、カズオ・イシグロさんが来日したとき、二人でご飯をたべてずいぶん長く話をしました。仕事抜きで、ほかの人をいれず、あくまでプライベートに話そうという彼の側からの申し入れがあって会ったわけです。僕ももちろん彼の作品は全部読んでいます。彼も僕の小説をほとんど全部読んでくれていました(日本語ができないので、翻訳で読んでくれたわけですが)。インテリジェントで素敵な人でしたよ。まじめな話もしたけど、ずいぶん笑った記憶があります。何の話をしたんだっけな? 忘れちゃったけど。うん、彼はけっこうロックを聴くんです。音楽の話もわりにしました。

 もしカズオ・イシグロさんと僕の作品世界に共通性をおこがましくもひとつあげるとしたら、それは環境の人工性と、そこに入る人物の切迫性みたいなことじゃないかという気がします。彼とはそんなこともちょっと話しました。それはポール・オースターの作品についても、あるいは更にさかのぼってフランツ・カフカの作品についても言えることかもしれませんが」

 ここに、ポール・オースターのことが出てくるのは、読者の質問がカズオ・イシグロのことだけでなく、ポール・オースターのことにも触れたものだったことも関係しているかもしれません。

 インターネットを使った読者との応答集では『村上さんのところ』(2015年)が話題になりましたが、そこでも、カズオ・イシグロのことが何回か記されていました。

 「好きなイギリス人作家は誰ですか」という質問に「僕はイシグロのファンですので、やはりカズオ・イシグロの名前をあげると思います。世界的にも人気があり、評価は高いですよね。もともとは日本人だけど、既に英国を代表する作家になっています」と答えていましたし、本が出たら必ずすぐ読む作家としてカズオ・イシグロを挙げていました。

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 2011年に刊行された『村上春樹 雑文集』には「カズオ・イシグロのような同時代作家を持つこと」という文章が収録されています。

 この文章は2010年に英国で出版されたカズオ・イシグロの作品についての研究論文を集めた研究書の序文として書かれたものです。日本では「モンキービジネス」2008年秋号に日本語版が掲載されています。

 『村上春樹 雑文集』には、本文の前に、そのような紹介文が付いています。それによると、「イシグロは僕がもっとも愛好する同時代作家の一人で、何度か会って話したこともあります。なぜか僕のところに『序文を書いてもらいたい』という依頼が来たので、喜んで引き受けました」とあります。

 その本文は「新しい小説が出るたびにすぐ書店に足を運び、それを買い求め、ほかに読みかけの本があっても途中でやめて、何はさておきページを開いて読み始めるという作家が何人かいる。それは多くの数ではない、というか現在の僕の場合、ほんの何人かしかないわけだが、カズオ・イシグロもそのような作家の一人である」と書き出されています。

 その文章の中には「僕はこれまでイシグロの作品を読んできて、失望したり、首をひねったりしたことが一度もない」ということも記されていますし、最後には「一人の小説家として、カズオ・イシグロのような同時代作家を持つことは、大きな喜びである。そして一人の小説家として、カズオ・イシグロのような同時代作家を持つことは、大きな励ましになる」と書かれています。

 さらに、カズオ・イシグロの作品について、それは1冊1冊がそれぞれに異なった成り立ちをしていて、その構成も文体も作品ごとに、明らかに意図的に区別されているのに、それにもかかわらず、確実にイシグロという作家が刻印されていて、小宇宙を構成していることが述べられています。でも、それだけでなく、それらの小宇宙が読者の中で、ひとつに集められると、そこにカズオ・イシグロという小説家の総合的な宇宙のようなものが、まざまざと浮かんでくることを記したあと、村上春樹は次のように書いています。

 「つまり彼の作品群はクロノロジカルに直線的に存在していると同時に、水平的に同時的に結びついて存在してもいるのだ。僕は彼の作品を読んで、いつもそのような感想を強く抱くことになる」

 この「作品群はクロノロジカルに直線的に存在していると同時に、水平的に同時的に結びついて存在」しているということは、村上春樹の作品にも、そのまま当てはまると思います。実際、この「カズオ・イシグロのような同時代作家を持つこと」という文章はカズオ・イシグロが「次にどんな作品を生み出すのか、それを思い描くことは、自分が次にどんな作品を生み出すことになるのか、それを自ら思い描くことでもある」と結ばれています。

 もちろん、優れた小説家というものは、各作品がその作家ならではの小宇宙を構成していて、さらに小宇宙が読者の中で、ひとつに集められるとその小説家の総合的な宇宙がまざまざと迫ってくるものなのだと思います。

 でも、村上春樹のカズオ・イシグロに対する言葉は、それを超えて、イシグロ作品から触発されてくる、共通性のようなものを感じる文章なのです。カズオ・イシグロの「リアリズム・モードをうまく破ること」という言葉にも、村上春樹作品との、何か、共通性のようなものを感じるのです。

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 今回はカズオ・イシグロと村上春樹の言葉の紹介が多くなってしまいましたが、そこにどんな響き合いのようなものを、読者として感じとることができるのかということを、少しだけ記してみたいと思います。

 2015年に刊行されたカズオ・イシグロの長編『忘れられた巨人』は、6世紀ごろの大ブリテン島を舞台に騎士や竜が登場する物語です。「ガウェイン卿」が出てきて、「えっ、今度はアーサー王伝説なのか」と思いました。ガウェイン卿はアーサー王の甥で、アーサー王に仕えた円卓の騎士の一人です。考えてみれば、英国はアーサー王伝説の本場ですから、日本人の読者が驚く必要はないのですが。

 そんな時代を、ある老夫婦が遠くにいる息子を訪ねることから、物語が動いていきます。深い霧に覆われて、その霧はすべての記憶を覆い隠します。老夫婦の記憶もあいまいですが、竜の息が霧の原因で、その竜を退治できるかどうかというふうに進んでいきます。

 このように紹介すると、ファンタジーの世界のようですが、でもファンタジー世界のように読めない作品なのです。隔絶された世界に読者が引き込まれ、かつて対立していたブリトン人とサクソン人が、再び対立するのか、和解をして平和な世界に向かうのかというふうに世界に物語が進んでいきます。

 私はカズオ・イシグロを取材したことがありませんが、共同通信・文化部の記者のインタビューに答えて、この作品の着想は現実の世界情勢から得たと、イシグロは語っています。

 「きっかけは旧ユーゴスラビアの内戦とルワンダの虐殺。特に、隣人として平和に暮らしていた異民族が殺し合ったユーゴ紛争は、休暇先としてもなじみ深い地域なのでショックでした。一世代前の対立の記憶は忘れられていたが、平和は偽りだとばかりに、その記憶が憎悪とともに引きずり出されたのです」

 カズオ・イシグロは、ノーベル賞文学賞の受賞が決まった時、「ノーベル賞は常に平和のためにある。受賞という大きな名誉がわずかでも平和のための力になればいい」と語っていました。

 この『忘れられた巨人』の中でも、繰り返し、「平和」という言葉が出てきます。例えば「わが敬愛するアーサー王はブリトン人とサクソン人に恒久の平和をもたらした。遠くの地ではまだ戦があるとも聞くが、ここでは互いに友であり、もはや縁者である」。あるいは「われらの間に恒久平和が定着するのに十分な時間かもしれない」「虐殺と魔術の上に築かれた平和が長つづきするでしょうか」。さらに「もしまた会うことがあれば、平和のうちにお進みなさい、と言うでしょう。ま、もはや平和などありえませんが」とも記されているのです。

 これらの「平和」をめぐる会話が、インタビューや記者会見の中の「平和」という言葉と響きあっているのでしょう。カズオ・イシグロの小説を読むと、そういう、歴史や現実世界の時代の問題が迫ってきます。

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 アーサー王伝説と村上春樹作品の関係は、この「村上春樹を読む」の中でも何回か考えてきました。

 わかりやすい例を挙げてみれば、『1973年のピンボール』(1980年)の最後のほうには「もちろんそれで『アーサー王と円卓の騎士』のように『大団円』が来るわけではない。それはずっと先のことだ」という言葉があります。

 きっと、村上春樹はアーサー王と円卓の騎士など、中世騎士物語が好きな人なのだと思います。2013年5月に京都で、村上春樹の公開インタビューが開かれましたが、そこの場で、参加者の質問に答えて(どんな質問かは忘れてしまいました。すみません)、村上春樹が<みんな森に竜退治に行く話なんかが好きですよね>というふうに語っていました。

 アーサー王伝説は、聖杯伝説とも関係して、ファンタジー的に受け取られがちです。確かに、その『1973年のピンボール』には「208」と「209」という数字が書かれたトレーナーを着た双子の女の子が登場したりします。いかにもファンタジー世界のようです。

 でも、この「208」と「209」は「昭和20年8月」と「昭和20年9月」を示していることが、『ねじまき鳥クロニクル』(1994年−1995年)などで、明かになってきます。つまり『風の歌を聴け』(1979年)『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』(1982年)という初期3部作は、日本近代と戦争の歴史を描いた作品として繋がっているのです。

 村上春樹もまた、常に歴史や現実の問題と格闘しつづける作家なのだと思います。村上春樹自身の言葉によれば、その「作品群はクロノロジカルに直線的に存在していると同時に、水平的に同時的に結びついて存在」している作家なのです。

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 でも、個人の魂の格闘が、歴史や現実の問題と響き合う小説になるには、どこか別な隔絶された世界に、読者がいかなくてはいけないと思います。不思議なことですが、歴史や現実とダイレクトに接すると、歴史や現実の問題と響きあってこないのです。私だけが、そう感じているのかもしれませんが、でも一読者として、そのように感じます。

 カズオ・イシグロの6世紀ごろのブリテン島を舞台にした『忘れられた巨人』も隔絶された世界ですし、その10年前の長編『わたしを離さないで』は、クローン人間や臓器移植の問題が、外界から隔絶された特殊な寄宿学校を舞台に描かれました。

 村上春樹の世界も、例えば『羊をめぐる冒険』は、北海道の旭川から塩狩峠を越え、さらに奥にある十二滝町という土地の山上に向かう物語です。その十二滝町は「これより先には人は住めない」という場所。大規模稲作の北限地です。その隔絶された山上の古い牧場跡で僕は羊男に会い、友人の鼠と再会するのです。

 なるほど、村上春樹の言葉を借りれば、2人は「環境の人工性と、そこに入る人物の切迫性みたいなこと」で、共通しています。そのような隔絶された場所から「リアリズム・モードをうまく破る」のです。

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 そして、村上春樹も、カズオ・イシグロも「記憶」というものの力を物語に持ち込んでいることも共通しています。

 村上春樹の初期短編の代表作の1つ「午後の最後の芝生」(1982年)には「記憶というのは小説に似ている、あるいは小説というのは記憶に似ている」という言葉が記されていました。

 そしてカズオ・イシグロも「記憶」をめぐる作家です。英文学最高のブッカー賞を受賞して、一躍英文学の旗手として世界に知られるようになった『日の名残り』も、英国人執事の旅と記憶の回想を描いた物語です。『忘れられた巨人』の「巨人」も「記憶」のことです。

 「記憶を自己の都合でゆがめてしまう人間存在と、歴史という社会・国家の記憶を勝手に曲げてしまう共同体の問題。さらに個人はすべてをはっきり記憶していたら幸せなのか。社会・国家が恣意(しい)的にゆがめてしまった記憶・歴史はどうしたら正せるか。そのように記憶を巡って何重にもふくらんでいく作品世界を、繊細かつ幻想的な文体で描く」

 そのように、私はノーベル賞文学賞が決まった時に、カズオ・イシグロの作品について記事を書いたのですが、その記憶をめぐる物語が、個人の記憶だけでなく、国家の歴史や現実の問題と響き合い、せめぎ合って、書かれていることが、特徴なのだと思います。村上春樹の作品も、個人の魂の問題が、つねに国家の歴史や現実の問題と響き合い、せめぎ合って、書かれています。

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 以上、村上春樹を読んできた者として、カズオ・イシグロと、その文学世界が、どのように響きあっているのかを、考えてみました。

 さて、村上春樹の最新長編『騎士団長殺し』(2017年)の英訳が進んでいるようです。この作品にモーツァルトのオペラ『ドン・ジョバンニ』の冒頭で、放蕩者ドン・ジョバンニと果たし合いとなって殺される「騎士団長」が登場します。カズオ・イシグロの『忘れられた巨人』も円卓の騎士「ガウェイン卿」が出てくる物語でした。2人は「騎士」への興味も重なっているのでしょうか。(共同通信編集委員 小山鉄郎)