ジャポネス・ガランチード 岐阜からブラジル移民100周年

(1)運命の開拓夢見て

1913年、岐阜から「南国の楽園」へ  背景に農地の労働力不足
写真:(1)運命の開拓夢見て

岐阜県からの初めてのブラジル移民を乗せて海を渡った若狭丸(日本郵船歴史博物館所蔵)

 日本からブラジルへの移住が始まって5年後の1913(大正2)年3月30日。神戸港から移民船「若狭丸」が乗客1588人を乗せてブラジルへ出航した。その中に岐阜県出身の11家族44人がいた。彼らが岐阜県からのブラジル移民第1号。岐阜とブラジルを最初に結んだ人たちだ。

 移民の歴史は今も昔も世界情勢と密接に関係している。ブラジルへの移民が始まった背景には、奴隷制の廃止があった。

 明治以降の富国強兵策に伴う国内人口の増加に対応するため、日本からは米国への移民が多かった。だが、増えすぎた日本人に対し、排斥運動が強まる。

 同時期、ブラジルでは労働力が不足していた。1888年に奴隷制を廃止したからだ。日本は新たな移住先を探していた。ブラジルはコーヒー農園での労働力を世界中からかき集めていた。岐阜県からの44人はその一部だった。

 初期のブラジル移住は県内において、どう捉えられていたのだろう。岐阜県海外移住組合が昭和初期に作成した「ブラジル移住問答」が参考になる。

 この小冊子は一問一答形式で移住を呼び掛けている。強調されているのは、南国の楽園ぶりだ。

 ブラジルの農業はのんきなもので、肥料は使わないし、大雨の心配は絶対にない。農地は20〜30ヘクタールと広大で、日曜日は休む。「日本では人口の増加に対しては困っているのですが、ブラジルではむしろ歓迎しているのです。大いに馬力をかけてドシドシ子どもをつくってください」。心誘われる説明文が並ぶ。

 なぜ、母国を捨てて遠く海外にまで移住しなくてはいけないのか、という心理的な葛藤にも丁寧に答えている。「祖国を捨てるのではありません」とし、豊臣秀吉を例に挙げ、自分自身の運命を開拓しろとけしかける。

 移民が死ぬようなことはありませんか、との問いには「そのような心配は全然ありません」と断言。「老人でも幼児でも、また体の弱い家族の方でも移住後はかえって丈夫になって働いているのは事実が証明しております」

 実際は、だいぶ違った。

(敬称略)
(この企画は馬田泰州が担当します)