ジャポネス・ガランチード 岐阜からブラジル移民100周年

(2)「頑張る」が合言葉

過酷な労働や差別…相次ぐ苦難  日本人の誇り持ち続け
写真:(2)「頑張る」が合言葉

記念写真に納まる移民の一家=1962年ごろ、ブラジル・リオデジャネイロ郊外

 ブラジルへの初期の日本人移民の環境は、楽園とは程遠かった。

 1888年に奴隷制を廃止したことで、ブラジルは労働力不足になり、移民を受け入れるようになった。日本からの移民は奴隷と同じように扱われた。

 1913年、岐阜からのブラジル移住第1号の44人は、マットグロッソ州のコーヒー園に小作人として入植した。その中に、岐阜市出身の古田富士之助がいる。手紙が残っている。「(前略)移民はすべて強制的に労働させられ、時間的にも制限なく早朝4時より暗くなるまでが労働時間で、依然として奴隷制度の習慣が実行された(後略)」

 病気で倒れる人も相次いだ。郡上郡和良村(当時)から移住した一家は熱病に襲われ、母親が4人の子どもを残して亡くなった。

 ただ、古田はこんな記録も残している。「岐阜県からの第1回の移住者の60年後の家族約500人を調査したところ、定着できず帰国したり、犯罪を犯した者は一人も見出さなかった」。古田は、このことを一番の誇り、と書いている。

 移住の歴史に詳しい東海学院大学教授の天沼香(63)は、聞き取り調査をしたブラジルをはじめ世界10カ国の日本人移民から同じ言葉を聞いている。「頑張ると我慢。この二つの言葉を言わない人はいなかった」

 ブラジルは比較的人種差別の少ない国と言われているが、北米などは偏見が大きかった。差別され、苦しいときほど日本人の移民は頑張った。「頑張ると口にすることで、彼らは日本人であることを確認していた」

 我慢して頑張って働く日本人たちは、仕事を奪うと移住先で疎まれることも少なくなかった。貧しく弱い立場の現地労働者たちが日本人街を襲うこともあった。「背後には、そうした人たちの支援を受けたい三流政治家がいて、三流新聞があおった」。この構図はどこの国でも、どの時代でも共通しているという。現代の日本でも起きるかもしれないと、天沼は懸念する。

 ただ、天沼が接した移民の人たちには苦労を感じさせない人柄の人が多かった。日本を飛び出し、新たな自分を見いだそう。こんな進取の精神の持ち主が多かった。「移民とは、国境を越えて行動する先進的な人々と言える」(天沼)。

 頑張る、はもともと我に張る、つまり意地を張るとか自分を主張するという意味だったという。言葉も文化も風習も違う外国で移民たちは、勤勉に働くという日本人らしさを主張し続けた。日本人なら頑張る。彼らほど日本人らしい人たちはいなかった。

(敬称略)