ジャポネス・ガランチード 岐阜からブラジル移民100周年

(5)ピンチをチャンスに

平生釟三郎、悪化した二国関係を解決
写真:(5)ピンチをチャンスに

ブラジルからの訪日団を東京駅で出迎える平生釟三郎(手前左、眼鏡の男性)。この写真は1936年9月発行の「アサヒグラフ訪日伯国経済使節歓迎号」の表紙を飾った(東京海上日動火災保険提供)

 ブラジルへ移住が始まって岐阜県からは100年、日本からは105年。この歴史を語る上で特筆すべき、岐阜市出身の人物がいる。平生釟三郎(1866〜1945年)。平生がいなかったらブラジル移住の歴史は間違いなく変わっていた。経済人、政治家、教育者として多くの業績を残したスーパーマンだった。

 1934年、ブラジル政府は実質的に日本人移民を制限する法律をつくる。当時、ブラジルは白人主義が強く、勤勉な日本人は仕事を奪うと疎まれた。アマゾンを日本の植民地にしてしまうのではないかとも疑われた。日本政府は対策としてブラジルに経済使節団を送る。当時70歳の平生が請われて団長となった。

 急激に悪化する二国間関係。平生は今に通じるビジネスの手法で解決を図る。

 日本とブラジル間には貿易がほとんどなかった。平生は原綿をブラジルから買うことを考えた。そうすればブラジルはもうかり、日本にもメリットは大きい。綿花栽培は日系農家が中心だったので日本人移民も得。ギブ・アンド・テークだ。

 この試みは成功した。ブラジルの日本向け原綿輸出量は35年の248万トンから、37年に5114万トンと20倍以上に急増。ブラジルの綿花で日本が綿製品を作り、それを国際市場で売るというビジネスモデルができた。日本人移民受け入れも確保した。

 平生は、ビジネスの仕組みをつくっただけではない。日本を警戒していたブラジルに、日本ファンをつくってしまった。

 平生使節団がきっかけとなり、ブラジルから日本への使節団もできる。この訪日団のリポートが、移民を送り出す貧しい東洋の小国という日本のイメージを変える。ブラジル人による日本文化協会が設立され、小学校では日本を紹介するようになった。サンパウロ州政府は欧州移民への特別待遇を廃止して平等に扱うよう移民法を変えた。

 甲南学園平生釟三郎研究会委員で、日伯経済文化協会理事の栗田政彦(69)=川崎市=は「民間外交の歴史の中で、平生ほど人を引き付け、日本を応援するよう仕掛けた人はまずいない」と高く評価する。「平生はサラリーマンだったときから国を思い、世界を見ていた。合理主義と情熱を持っていた」と話す。

 平生が専務を務めた東京海上日動火災保険は、平生の出身地である岐阜を今も重視している。ことし3月には県、県産業経済振興センターと県内企業の海外事業支援で協定を結んだ。ブラジルビジネスセミナーも岐阜で開く。平生がつくったつながりは今も生きている。

(敬称略)

【平生釟三郎(ひらお・はちさぶろう)】 加納藩藩士の三男として現在の岐阜市加納で生まれる。岐阜中学校などを経て、高等商業学校(現在の一橋大学)を首席で卒業。スカウトされて入った東京海上保険(現在の東京海上日動火災保険)で活躍し、やはり岐阜市出身の各務鎌吉とともに同社中興の祖とされる。社長として川崎造船所(現在の川崎重工)を再建。日本製鉄社長、日本商工会議所顧問などを歴任した。教育に情熱を注ぎ、神戸市に甲南尋常小学校、甲南高校などを創立、甲南学園理事長を務めた。1936年には文部大臣も務めた。