ジャポネス・ガランチード 岐阜からブラジル移民100周年

第2部 マルセロ(8) 「へそ埋める」決意

美濃加茂で病院通訳務めた母 
写真:"岐阜県からブラジル移住100年の記念誌の翻訳を手伝う渡辺エミリア・ヤエ(左から2人目。右隣はマルセロ)=美濃加茂市古井町"

岐阜県からブラジル移住100年の記念誌の翻訳を手伝う渡辺エミリア・ヤエ(左から2人目。右隣はマルセロ)=美濃加茂市古井町

 1991年の夏、渡辺マルセロ(34)がブラジル・リオデジャネイロから日本に来ることになったのは、両親が一家での来日を決めたからだ。

 母の渡辺エミリア・ヤエは、リオ郊外で生まれた。電気も水道もない農村だった。九州出身の祖父母と、父の兄弟家族と暮らしていた。広い庭にはザクロやパパイヤが実っていた。

 父の仕事の関係で7歳でリオに出た。看護師になりたかったが、父が病気になって進学を諦めた。夜学で高校を卒業し、働いた。

 日本行きの話を夫が持ち出してきたのは、エミリアがシティバンクのリオ支店で副支配人をしていたときだった。

 夫は日本の大企業の現地法人でエンジニアだったが、その現地法人が解散してしまったのだ。一方、日本行きはブームになっていた。エミリアは職場を辞めた。支配人に昇進させようと思っていたシティバンクの上司はかなり怒った。

 美濃加茂市に住み、テレビや車の部品工場で働いた。職場は大手外資系銀行とは勝手が違った。ベルトコンベヤーのスピードについて行けず、部品を追い掛けて走った。

 やがて市内の木沢記念病院で通訳になった。看護師になりたかったエミリアは病院で働くことに喜びとやりがいを感じた。通訳だから病院のどこにでも行けた。自分の言葉で治療方針も薬の処方も決まった。

 病院の通訳は辞めたが、今でも市内のスーパーで病院の通訳さん、と呼び掛けられたりする。日本人からだ。病院中を走り回っていた姿は、日系ブラジル人が急増する時代の美濃加茂市の一つの象徴だった。

 マルセロもその妹も独立して、今、エミリアは一人で暮らす。夫は腰を痛め、日本暮らしにストレスもためて、10年以上前にリオへ帰ったが、「離れている方が仲がいいぐらい」と強がる。

 子どもたちも、子どもたちの友達も遊びに来る。マルセロの友達と2人で焼き肉も食べに行く。家に帰ると時々、玄関の前に野菜が置いてある。「周りの人に恵まれた」と感謝する。

 リオには夫も80歳の母もいる。大好きな街だ。でも「私は美濃加茂人」。山や雨や土の匂いがして、大事な人たちがいる。

 その土地で一生を過ごす決意を示す日本語に「骨を埋める」という表現がある。同じことをブラジルでは「おへそを埋める」と言う。その土地を生まれ故郷にするという意味だ。エミリアは笑ってうれしそうに言う。「私は美濃加茂にへそを埋めるよ」。

 (敬称略)