ジャポネス・ガランチード 岐阜からブラジル移民100周年

第3部(4) 中島工務店

移住の夢、今もなお 39年前に初訪「いつか大規模農業を」
写真:「ブラジルに移住する夢を諦めていない」と話す中島紀于さん=中津川市加子母

「ブラジルに移住する夢を諦めていない」と話す中島紀于さん=中津川市加子母

 いつかブラジルに移住して大規模農業に挑む。39年前に抱いた夢を実現させるために中島紀于(68)は休みなく働いてきた。中津川市加子母の建設業、中島工務店社長。県内有数の建設業グループを育てたトップの視線の先にはいつも、南米の大国があった。

 中島は30歳のときブラジルを1週間、一人旅した。スケールの大きさに圧倒された。温暖な気候、1農家当たり何百ヘクタールという広大な農地。知り合った農家は1千ヘクタールの畑でジャガイモを育て、年5回収穫していた。「この国で働きたい。農業をしたい」。思いが心に刻み込まれた。

 当時、すでに同社の社長。どうしたら夢をかなえられるか。帰国後、答えを出した。「全て自前でモノをつくれるようになる」。広大なブラジルでは他人に頼れず、自分でなんでもできないといけない。いつかブラジルに移るときに備え、仕事を下請けに分散する業界の常識に反し、オールラウンダーな建設業を目指した。

 木造住宅や寺社、商業施設、公共施設。どんなものでも造れる体制を整えた。山で木を育て、コンクリートや集成材など建材も自社工場で生産。工具まで作る。中島は「偽札と麻薬、武器以外は何でも作る」と冗談交じりに言う。全国各地の工事現場には加子母から職人を送り込む。

 自社で仕事を完結させる体制は高い品質と顧客からの信頼をもたらした。外資系企業の日本本社、有名な哲学者の自宅も手掛けた。岐阜工業高校卒業後、父と2人で始めた小さな会社は年商100億円、協力業者も含めて従業員1千人の企業グループに成長した。

 中島の夢は自社を成長させただけでなく、ブラジルの日系人社会も支えた。中島はサンパウロにある日本館を無償で修復してきた。

 日本館は市内の公園にある純和風の建物。1954年にサンパウロ市制400年を記念して日系人が寄贈したが、やがて激しく傷んだ。この建物を中島は88年、98年、そして今年の3回にわたってボランティアで修復した。今年は7月に宮大工、シロアリの専門家と一緒に渡り、傷んだ柱を取り替えた。

 修復3回分の費用は合計で数千万円。中島は自社から借りて、ずっと返し続けている。

 なぜここまでするのか。中島は「移住後の顔づくりのため」と真顔で言う。県工業会副会長を務め、県内でも代表的な経営者の一人となった今も、移住の夢はまったく揺らいでいない。

 日本から移住が始まった1908年以降、ブラジルに13万人の日本人が渡った。人口増や経済情勢が背景にあったとはいえ、多くの日本人を引き付ける何かがあったからこそ、13万人も海を渡ったのだろう。ブラジルの大地には日本にはない何かが埋まっている。中島は自分の目でそれを確かめるつもりだ。

(敬称略)