ぎふ財界をけん引してきた古今のリーダーたち

出会いとともに ぎふ財界人列伝

第3のスタート

(5)

高度成長期、受注伸ばす

 「トヨタ自工さんとの直接取引が始まったのはいいが、ランドクルーザー(ランクル)がどうやっても損がいく。1台10万円ずつの赤字が出る」

写真:岐南工場での生産工程。吹上工場を集約し、業容拡大への体制を整えた=羽島郡岐南町

岐南工場での生産工程。吹上工場を集約し、業容拡大への体制を整えた=羽島郡岐南町

 再び岐阜車体工業の大番頭といわれた水野辰哉(たつや)の回想。日本が高度経済成長期を突き進む1959年8月、トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)との直接取引が始まり、火の車状態が続いていた岐阜車体も業績は確実に上昇気流に乗っていた。こうした中での“赤字騒ぎ”だった。

 これは変だと、トヨタ自工から購買部の担当者が何人か訪れた。「ランクルを一度全部バラそう」。工場の広場にシートを敷き、1台丸ごと分解、全ての部品を並べた。そうして見積書と照らし合わせていった。

 すると、見積もりにない部品が一つ。「床板」だ。すっぽり抜けていた。当然、その分の請求はしていないことになる。赤字の原因がそこにあった。今でこそ笑い話だが、営業部、技術部の担当者とトヨタ自工に呼ばれ「どえりゃあ叱られた」。

写真:ランドクルーザーFJ45V(左)とスタウトRK45Pの製造ライン

ランドクルーザーFJ45V(左)とスタウトRK45Pの製造ライン

 しかし、「トヨタさんの対応がすごくてね」と水野は振り返る。「わざわざ調べに来てくれただけじゃなく、『決算より前にはさかのぼれないが、決算後の分は全て修正する』と損失分の補てんまでしてくれた。それからはランクルでちゃんともうかるようになり、赤字はいっぺんも出していない」

 トヨタ自工との直接取引実現にあらためて感謝するとともに、トヨタとの絆がますます重要になったエピソードでもある。

 高度経済成長期の日本は神武景気に続いて岩戸景気に沸き、60年には当時の池田内閣が所得倍増計画を打ち出した。自動車産業は大衆車時代に突入、トヨタのパブリカが先陣を切った。

 岐阜車体は60年10月、羽島郡岐南町に岐南工場が完成、プレス部門を担った吹上工場を集約した。岐南工場には最新鋭プレス機を導入し、ランドクルーザーFJ45Vのオールスチールボディーの型、ドア板などに性能を発揮。トヨタ自工が打ち出した新たな目標、月産3万台計画に対応できる体制とした。

写真:1966年の記録的な年間生産8000台突破に寄与したダイナロングボディーRK175H(ダブルタイヤ)(いずれも岐阜車体工業提供)

1966年の記録的な年間生産8000台突破に寄与したダイナロングボディーRK175H(ダブルタイヤ)(いずれも岐阜車体工業提供)

 60年はトヨタ自工向けのランクルFJ45V、小型トラックのスタウトRK45Pを計1311台生産。トヨタ自販向けの780台を大きく上回った。トヨタ自工向けのボディー生産は次第に軌道に乗り、62年1月早々、スタウトがラインオフ(完成)千台を達成。トヨタ自工向けへのシフトが進んだ。

 生産設備もタッチアップ(修正)工場の完成、プレス機新設など増強が続いた。63年2月にはランクルも完成千台を達成した。同4月、スタウトのダブルキャブ、トラックのダイナRK170の新車が誕生。10月にはダイナロングボディーRK175の生産が始まった。ロングボディーはヒット車種で、社発展の原動力となった。

 こうして受注は飛躍的に伸び、63年の新入社員採用は過去最高の122人。従業員は300人を超え、車体メーカーとしての姿が整っていった。岐阜車体の現会長星野☆夫(てつお)は「この時期が第3のスタート」と位置付ける。トヨタ自工はこの年10月、念願とした月産3万台を達成した。

(敬称略)

(注)☆は金ヘンに矢