ぎふ財界をけん引してきた古今のリーダーたち

出会いとともに ぎふ財界人列伝

各務原へ移転

(6)

生産力増強、新たな船出

 「近い将来、全工場が集結したときには、名実ともに岐阜を代表する工場となるよう、全力を傾けたい」

写真:各務原工場建設予定地に並んだ役員一同と生産車。車種は右端からRKダイナ、FJランドクルーザー、RKトヨペットスタウトなど

各務原工場建設予定地に並んだ役員一同と生産車。車種は右端からRKダイナ、FJランドクルーザー、RKトヨペットスタウトなど

 1967年10月6日、現本社所在地の各務原市鵜沼。各務原工場第1期工事の竣工(しゅんこう)式が行われた。あいさつに立った社長の星野鍵太郎(かぎたろう)は、一語一語に力を込め、全工場完成への決意を新たにした。

 町工場に始まって30年近く、トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)の協力会社として本格取引を初めて10年近く。高度経済成長とともに拡大する業容に合わせ、新天地の各務原に製造拠点を集約する第一歩。決意の言葉は、鍵太郎自身だけでなく役員、従業員をも鼓舞した。

 少しさかのぼって64年。東京オリンピックに沸いたこの年、岐阜車体は受注の増大と業績向上に伴い、積極的な設備投資で生産体制拡充に力を入れた。当時の主力車種の一つ、トラックのダイナロングボディーRK175は4月にラインオフ(完成)千台を達成。前年秋の生産開始からわずか6カ月での快挙で、社業の勢いを象徴する大台突破となった。

 こうした増産基調の中、限界に達していた生産能力を引き上げるため、新工場の用地を探したところ、県と各務原市の仲介で同市鵜沼に8万2500平方メートル(現在は13万平方メートル)を確保。64年8月、県庁で土地購入契約の調印式を行った。この年の売上高は10億円を突破した。

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写真:各務原工場の第1期工事竣工(しゅんこう)式。幹部たちは生産拠点集約と業容拡大へ決意を新たにした=1967年10月6日、各務原市

各務原工場の第1期工事竣工(しゅんこう)式。幹部たちは生産拠点集約と業容拡大へ決意を新たにした=1967年10月6日、各務原市

 同年、現会長の星野☆夫(てつお)が28歳で入社した。☆夫は36年4月15日、岐阜市で鍵太郎と鈴の一人息子として誕生。立教大を卒業後、当時は難しかった米国留学を2年間の奨学金を得て果たした。

 留学先はオハイオ州の私立大。「光り輝いていたアメリカに憧れ、困難の先にある大きな価値を求めて」(☆夫)自ら決断し手はずを整えた。23歳から2年間の留学で「自己を主張し、自分で道を開かなければ生きてはいけないというアメリカ流の生き方、違う価値観を持つ人と付き合うことの素晴らしさを学んだ」。

 帰国後は入社前の3年間、中部産業連盟(名古屋市)のコンサルティング部門で助手をし、さまざまな企業を回りながら品質管理などを学んだ。

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写真:創立30周年の記念の年に本社を移転した各務原工場の全景。後方は伊木山と木曽川=1970年、各務原市(いずれも岐阜車体工業提供)

創立30周年の記念の年に本社を移転した各務原工場の全景。後方は伊木山と木曽川=1970年、各務原市(いずれも岐阜車体工業提供)

 自動車業界がいざなぎ景気による需要増で活況を呈する中、岐阜車体は、63年に2400台足らずだった年間生産台数が、66年には8000台を突破。トヨタ自工向けの生産台数もこの年、取引開始から丸7年で累計2万台を達成した。各務原工場建設の第1期分、プレス工場とボディー工場が完成した67年には1万台を超えた。

 この年、トヨタ自工の生産分担が再編成され、ダイナとともに長く岐阜車体の支柱の一つだったランドクルーザーが荒川車体(当時)に移された。代わりにセントラル自動車(同)からダイナのルートバンやダブルキャブの製造が移管。ダイナはモデルチェンジを繰り返しながら岐阜車体の稼ぎ頭になっていった。

 各務原工場は2期、3期工事を経て創立30周年の70年1月、岐阜市の本社・岐阜工場を各務原へ移転、4月には記念式典を盛大に開いた。華々しく船出した新本社体制だが、後に☆夫が「イバラの道だった」と振り返ることになる、思いも掛けないトラブルが待っていた。

(敬称略)

(注)☆は金ヘンに矢