金華山の麓にある「若き日の織田信長像」。信長は岐阜城から天下を目指した=岐阜市大宮町

 岐阜のタカラ、それは「岐阜城と織田信長」という。確かに、信長の美濃攻めから始まる天下統一の物語は全国的に知られるところで、岐阜という地名も信長にちなむ。でも、なぜ美濃を狙い、美濃から天下を目指したのだろう。

 今回は、美濃地方を舞台に話が進む。群雄割拠の戦国時代。斎藤道三、織田信長、明智光秀、豊臣秀吉、そして天下分け目の関ケ原合戦に勝利した徳川家康に至るまで、数々の武将が美濃で名声を上げた。

 この時代を描いた司馬遼太郎の歴史小説「国盗(と)り物語」。司馬は、美濃を高く評価した。若き日の道三を借りて「美濃を制する者は天下を制する」と記し、信長の美濃攻めでも「美濃を取れば天下を望むこともできる」と匂わせた。

 美濃を制する者は天下を制する-。有名なフレーズだが、岐阜関ケ原古戦場記念館(不破郡関ケ原町)の館長を務める歴史学者の小和田哲男・静岡大名誉教授は、こう読み解く。「実は誰が、いつ言い出したのか分かっていない。信長が美濃を制した後に天下を狙ったことから、後付けで生まれたような印象を受ける」

 ただ、美濃には信長に天下を狙わせるだけの潜在能力があった。「美濃が優れている点は、やはり水。木曽三川。水があればコメがとれる。美濃は穀倉地帯だった」と小和田さん。その根拠として当時の石高を例に挙げる。

 「のちの秀吉の太閤検地を参考にすると、信長がいた尾張は57万石で、美濃は54万石だった。美濃を手に入れると100万石の大名になれる。穀倉地帯の美濃を手に入れたいという思いがあったはずだ」

 さらに、小和田さんは河川の機能に注目する。「戦国時代の物流は水運。信長は父の信秀から商品流通の重要性を学んでいる。木曽三川では水運による物流が盛んで、信長は尾張で海の港を抑えていたが、もっと川の上流の要所も欲しかったのだろう」。物流網を上流から下流まで掌握できれば、この地の経済をコントロールできる。そして「それに成功した(美濃を制した)ことで、さらに先、天下を狙う野心が芽生えたのではないか」

◆「川並衆」が水運操り協力

 その信長の美濃攻めで一役買ったのが「川並(かわなみ)衆」と呼ばれる川の民だった。小和田さんも美濃攻めのポイントの一つに彼らの存在を挙げる。主に木曽川筋に勢力を広げ、水運を操り、河川を支配していた。

 「武功夜話(やわ)」の伝承に基づくと、美濃攻めでは、信長に仕えた秀吉(木下藤吉郎)が、蜂須賀小六ら川並衆を口説き、織田家に引き寄せた。もともと彼らと交流のあった秀吉を川並衆の一員とする説もある。

 秀吉は彼らの協力で木曽川に木材を流し、墨俣(現大垣市墨俣町)の長良川河畔に“一夜”にしてとりでを築いた。当時は木曽三川が編み目状に流れ、行き来できたからで、そこを拠点に長良川に面した稲葉山城(岐阜城)を攻め落としたとされる。秀吉の出世物語で語られる「墨俣一夜城伝説」がこれだ。

 この話を、創作と見る声もある。ただ、地元の人たちは信ぴょう性のある伝説として受け止めている。川並衆について記した著書を持つ、NPO法人「笠松を語り継ぐ会」代表の高橋恒美(つねよし)さん。「一夜かどうかは分からないが、内容に地域的な矛盾がない。目の前にこれだけの大河が流れていて利用しない手はない。そうした集団がいたことは確かだと思う」

 高橋さんによると、川並衆による“一夜城作戦”は墨俣のほか、新加納(現各務原市)でも例があったという。美濃は、川によって栄え、川を知る者たちの手で歴史が動かされてきたのかもしれない。

 そうした豊かな水の流れは太平の世の訪れと共に、この地を交通の要衝へと発展させた。