今も木造船で漁を行い、川を伝って板場に川魚を運ぶ平工顕太郎さん。川は昔の物流ルートだった=岐阜市、長良川

 岐阜のタカラ、それは「日本一ちょうど良いところ」「日本の真ん中にあること」という。確かに、東京と大阪の間に位置し、太平洋にも日本海にも出やすい岐阜県。でも、その“ちょうど良さ”にどんな利点があるのだろう。

 日本の真ん中にあるというちょうど良さは、古くからこの地の産物を全国に広めることに役立った。それを支えたのが、水。川を使った水運だった。

 例えば、美濃和紙。美濃市港町の長良川河畔にたたずむ木造の灯台は、ここに川湊があったことを今に伝える。この美濃和紙の産地では、水の流れが緩やかな板取川沿いに和紙職人の工房が並び、その和紙を「うだつの上がる町並み」の商人が仕入れ、長良川から全国に送り出した。

 この地の川湊は、平和が訪れた江戸時代になってから本格的に整備。「美濃紙といえば障子紙、と言われるほど全国に流通した」とは、同市の「美濃和紙の里会館」学芸員の須田亜紀副館長。「途中、下流の岐阜で荷揚げされ、和傘やうちわ、ちょうちんの素材にもなった」。美濃和紙が広く流通したのは「木曽三川の下流に尾張があり、江戸も大坂も遠くはない。他の和紙産地と比べると、交通の便が良かったのだろう」と推測する。

 川湊は各地にあった。羽島郡笠松町に古い町並みが残るのも、木曽川の上流と下流から物資が運ばれ、川湊として栄えたからだという。ただ、川を使った水運は廃れてしまった。そのため、水運と言われてもイメージしにくい。水の流れに逆らって、船は上流に進めるのだろうか。

◆川の〝高速道路〟何本も

 岐阜、各務原市で天然鮎専門店「結(ゆい)の舟」を営む平工顕太郎さんは、長良川で伝統的な木造船を操り、鮎を捕る川漁師だ。季節限定で木造船クルーズを行っているというので、冬だが頼んで乗せてもらった。

 捕った鮎は、長良川を船で伝って川沿いの旅館や料亭の板場まで運び入れるという平工さん。「陸路より楽」と笑う。でも、上流に進むのは? 「今はエンジンがあるけど、昔は帆。伊吹おろしの風を受けて上流に進んだ」。さすが、川を知る漁師。実際に川に触れることで、昔の水運がイメージできた。

 ともあれ、鉄道やトラックがない時代は、川を使って産物が運ばれた。街道などの歴史に詳しい岐阜市の郷土史家、松尾一(いち)さんはこう話す。「川は昔の“高速道路”。陸路の方が速いが人力で運ぶか、馬か牛になる。これは大変。重くて量があるものは、川を船で運ぶ方が便利だった」

 幸いなことに水が豊富な岐阜県域。木曽三川を中心に、その“高速道路”が何本もあった。そして、日本の真ん中に位置し、太平洋と日本海に近いことも、ちょうど良かった。特に、伊勢湾と敦賀湾を結ぶ線。太平洋と日本海が接近する本州の“くびれ”地帯は木曽三川や琵琶湖の水運に、陸路を交えた重要な物流ルートになっていた。

 三川分流工事が行われる前の木曽三川は編み目状に流れ、まるで高速道路のインターチェンジ。「美濃和紙に限らず、東濃や飛騨の木材、美濃茶、美濃焼などが船で全国に運ばれた。日本海に出れば北前船で現在の北海道、瀬戸内海を通って大坂へ。太平洋に出れば江戸へ。東北では美濃茶が高く売れた」と松尾さん。

 旧国鉄・東海道線の県内区間が、最初に関ケ原駅以西で開通し、大垣駅まで延伸。敦賀駅とつなぎ、揖斐川経由で伊勢湾と敦賀湾を結んだのも、昭和期に県選出の衆院議員、大野伴睦(ばんぼく)がここに「日本横断運河」を通そうとしたのも、うなずける話だ。

 そして、その“ちょうど良さ”は、この地の県民性を形作った。