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岐阜聖徳学園高校を卒業して愛知学院大学に進学、入学直後に骨にできるがんの一種「骨肉腫」が発覚したものの闘病生活を経て、東京パラリンピックの100mと400mに出場した石田駆選手。

パラリンピックのことや学生生活についてうかがいました。


─再び競技に打ち込めるようになるまで

 中学生の時から陸上をしていて、400mでインターハイ出場経験もあったことからスポーツ推薦で2018年に愛知学院大学に入学しました。入学して2週間ほど経ったときに左脇付近に大きな塊があることに気付きすぐに検査入院しました。そして「骨肉腫」と診断され、6月から1カ月半ほど手術のための入院を余儀なくされました。入学早々というまだ友達すらできていない時期を病気で棒に振ってしまい、悲しく悔しい気持ちでいっぱいでした。
 手術で人工骨頭をはめる決断をしましたが、医師からはあまり前例のない手術だと言われました。そして走るために力いっぱい腕を振ると外れる恐れがあるため、競技への復帰は不可能ではと言われました。

 しかし不思議と「絶対復帰する」という気持ちが揺らぐことはなかったです。手術から半年後、リハビリの経過が良かったことから試しに走ってみたところ、思ったよりも問題なく走ることができました。そしてトレーニングを再開させたところ、周囲からパラアスリートとしての活躍を期待されるようになりました。とは言え始めのうちは、自分が「障がい者」として走るという自覚はなく、戸惑いが大きかったです。しかし次第に闘病やリハビリというどちらかと言えば不幸な経験を良いものに変えるため、パラ陸上に挑戦したいと思えるようになりました。
 

─パラ陸上を始めてから

 手術から約1年後の7月に行われたジャパンパラ大会の100mと400mの2種目で日本新記録を樹立し、優勝することができました。そしてその翌月のパリでの世界大会では400mで優勝、11月にドバイで行われた世界選手権では400mで5位に入ることができました。
トレーニングは基本的に、日進キャンパスのグラウンドで他の部員と一緒にしています。私が入学する直前にグラウンドが張り替えられたため、4年ほど経った今でもきれいで走りやすい状態です。トレーニング用のマシンも充実しています。
 愛知学院大学の陸上競技部は、コーチが全てを管理している訳ではなく、学生の自主性を重んじ、選手それぞれが立てた目標に向かって努力をしていくところです。練習メニューも部員達で組み立てていきます。昨年の春はコロナの影響で大学でのトレーニングができませんでしたが、すでに自分で考える習慣ができていたので、やれることを探して力を伸ばしていくことができました。
 また、お金の面でも大学にはかなり助けられました。パラは競技人口が限られていることから大会のために遠く離れた都道府県に行くことは珍しくありません。旅費などの支援を受けられたので安心して競技を続けることができました。
 

─東京パラリンピックを振り返って

 パラリンピックは無観客であるにも関わらず、これまでの大会とは雰囲気が全然違いました。緊張はしましたが、ドキドキしすぎて力が出せないということはなく、メダルを目指して最善を尽くすことが出来たと思います。
 100mではいつも通り臨め、自己ベストの走りができ5位入賞を果たすことができました。日本記録の更新もできました。その後迎えたメインの400mは残念ながら思うようにはいきませんでした。同じ走る種目とは言え、100mと400mはテンポが全く違います。今シーズンは100mの調子が良いこともあり、400mの序盤に100mのような走りをしてしまったのがうまくいかなかった原因です。
 今は4年生ですので、もうすぐ大学卒業です。今後は、社会人になっても競技を続け、2024年のパリでのパラリンピックを目指していきます。種目については、オフシーズンであるこの冬にしっかりと対策し、400mでこれからもいくのか、それとも100m、200mなどにメインを移すかを考えていきたいです。
 

─大学生活を振り返って&高校生にメッセージ

 パラ陸上を始め、日本代表になったことで自分のことを知ってくれている人が増え、多くの出会いに恵まれました。また、パラ陸上を始めてからは、海外に目を向けるようになり、そういった科目をたくさん受講することができました。それが可能だったのは総合政策学部という、いろんな分野を幅広く学べる学部にいたからこそのことです。自身の変化を柔軟に受け入れてくれる学部で学べたことが今につながっていると感じています。この4年間は、たくさんの学びと出会いから、挑戦する勇気をもらえたかけがえのない時間でした。
 高校生の皆さんも、人生を無駄にしないよう、自分らしさを大切に、後悔しないよう進んでいってほしいですね。