「世界の太平洋」へ船出

2019年01月04日 14:20

  • 海原を渡って「百年企業」達成に向け、道筋を描く第5代社長小川信也=11月2日、大垣市久徳町、太平洋工業本社 
  • 太平洋工業に保管されている5本入り1ケースの古いバルブコア製品 

<海原へ ぎふ財界人列伝>

太平洋工業編(1)プロローグ

 国内での自動車生産台数わずか450台。部品のほとんどを輸入品に頼っていた昭和初期、自動車用タイヤのバルブコアの国産化を目指した太平洋工業が大垣市で創業したのは、1930年8月8日。馬車から自動車の時代になる、と見込んだ創業者の小川宗一は29歳の若さだった。

 宗一は愛知県中島郡起町(現一宮市)の旧家で4人きょうだいの末っ子として生まれた。父の従兄で大垣市の小川惣吉の養子となり、高校は養家から愛知一中(現旭丘高)へ通った。卒業後上京し、当時鉄道の管理をした運輸行政官庁の鉄道省教習所を出て名古屋鉄道局に勤務したが、2年ほどで辞めてしまった。「官吏生活は性に合わない」が理由だった。

 起業の機会をうかがっていた宗一には描いた会社像があった。「他人がやっていないもの。将来性があって、資本はあまりかからず、単価は安くても消耗品でたくさん売れてもうかるもの」。ここからベンチャーの気概が伝わる。そこへ県議だった養父の友人が訪ねて来て「名古屋にバルブインサイド(当時のバルブコアの呼称)を研究する技師がいるが、資金がなく製品化できない。一緒にやってみては」との情報をもたらした。

 技師に会って、事業の見通しを調べた宗一は、会社を興す決断をする。資金面では、家業の毛織物業を営む兄の小川憲一(のちに初代社長に就任)の出資を得た。資本金5千円、従業員10人での船出だった。時の国内経済は、世界大恐慌の嵐に巻き込まれ、自動車メーカーのトヨタ、日産の社名はまだこの世に誕生していない時代だった。

 宗一が着目したバルブコアは、自動車タイヤに空気を入れるバルブの芯として空気圧を保つ小さな部品。通称ムシと呼ばれ、1台に5本必要な消耗品で、社会情勢も考えると「自動車産業は将来性がある」と判断した。

 社名の太平洋工業への思い。宗一は「パシフィック(太平洋)」という言葉が好きだった。パシフィックなら字体や語呂が良く、外国人にも分かる。将来大きくなった時でも通用する。「小川の小さなせせらぎが次第に大きくなって大河となり、太平洋の大海原へとつながっていく」。そして「会社を大きく発展させ、世界を相手に事業を展開したい」。宗一の気概が込められた。

 「世界の太平洋」を目指し、創業のバルブ事業に加え、プレス事業を拡大、発展させた第3代社長の小川哲也。哲也は社長時代に「小川から出発し、今どの辺りか」と聞かれ、「まあ、伊勢湾に入ったところでしょうか」と答えていた。「太平洋は自然に左右され、波も荒くてとてつもなく大きい。成功だと思っても、まだ大変なことは多い。気を引き締めなくてはいけない」と、常に危機感を持ち、いつの時代でも夢という目標を持って実行に移した。

 時は流れて2018年。哲也の長男で第5代社長の小川信也は、海外の長年のライバルブランド「シュレーダー」のバルブ部門を買収して子会社化し、バルブ事業をさらに拡大した。「百年企業」の達成へ道筋を描くなかで事業の海外展開を積極的に進め、「太平洋か、大西洋か海原を渡ってどこへでも行けるチャンスがある」。会社を発展させる航海は続く。(敬称略)

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 ぎふ財界人列伝の第9弾は太平洋工業。自動車産業の発展を見抜いた創業者から、新製品を開発し、事業を海外展開し業績を拡大してきた経営者の夢の実現を探ります。

 【会社概要】▽本社 大垣市久徳町▽国内拠点 8カ所▽海外拠点 7カ国▽売上高 1177億5800万円(2018年3月期連結)▽従業員数 3622人

【リーダーズボイス2019太平洋工業株式会社


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