二兎追わず、忍耐の3年

2019年01月05日 14:38

  • 若いころの創業者の小川宗一 
  • 創業当時のころのバルブコアの製造風景。女子工員が手作業で作っていた 
  • 創業時は長屋を改造して工場に充てていたが、その後新築した本社工場。社名の下に当時の呼称で女工手募集の文字が写っている=1938年 

<海原へ ぎふ財界人列伝>

太平洋工業編(2)草創期

 創業者の小川宗一は岐阜県大垣市御殿町にあった自宅を本社に充て、養父惣吉が所有する同市西外側町の7軒長屋を改造して工場にした。繊維の街、大垣では珍しい自動車部品メーカー。当時は実体がよく分からないバルブコアを作る工場に、奇異の目を向ける人も少なくなかったという。

 設備は旋盤、ゴム加工の加硫(かりゅう)釜、ハンドプレスといった町工場そのもの。当時タイヤ会社はダンロップと横浜ゴムの2社で、太平洋工業創業の翌年にブリヂストンが設立された状況。バルブコアは先行の米国ブランド「シュレーダー」が使われていた。
後に太平洋工業のブランド「パシフィック」とライバル関係に発展していく。

 太平洋工業の草創期は予想を超える苦難続き。バルブコアの国産化は技術もノウハウもなく輸入品をまね、いかに同じものを作るかで始まった。形は作れても空気が漏れ、とても製品にならなかった。頼りにした技師は自信をなくし、1年ほどで辞めてしまった。

 それでも宗一は諦めない。2年ほどたって自信作をタイヤメーカーに売り込んだ。ダンロップのイギリス人技師からは「バルブコアは時計を作るより難しい。空気は見えないから不良箇所が分からないはず」と言われた。無色透明の空気の出入り口で、的確に漏れているところを見つけなければいけない。やっと売れた製品の数と、返品されてくる数が近いという厳しい営業成績。不良品の山ができ、経営は苦しくなる一方だった。

 製品として納品するには空気漏れがあってはならない。検査で不良品を見分け、合格した製品だけを納品すればよいことに気づいた。当初は女子工員に上唇でバルブコアを吸わせ、そのまま何秒落ちないか、係がストップウオッチで測って合否を決めたが、口の周りが血で真っ赤になってもたない。試行錯誤を繰り返し、ようやく空気漏れを検査する機械を自前で開発。これで品質の均一化が保たれるようになった。

 バルブコアのパイオニアの道を進む宗一。そのころ、成功につながる判断があった。当初並行して自動車エンジン内でガソリンと空気の混合気に点火する部品のスパークプラグも作っていた。名古屋の技術者から陶器部分を仕入れ、金属部品と組み立て、タクシー業者らに販売していた。しかし品質がそろったものができず、クレームが続出。解決には、莫(ばく)大な設備資金が必要だった。大阪へ営業に出かけた際、売れずにやめる判断をし、未練を断ち切った。「二兎(と)を追うもの、一兎も得ず」のことわざにならって二兎を追わなかった。スパークプラグを諦め、バルブコアに専念すると決断し、選択と集中で突き進んだ。

 厳しい経営でも続けられたのは、小川家の財力と宗一ら社員の努力と執念だった。やっと使える製品になったのは創業から3年後。「石の上にも3年」ならぬ「ムシの上にも3年」だった。そして36年、忘れられない大きな初仕事。ダンロップからゴムを提供することを条件に採用され、5万本を受注した。宗一の先見性が実を結び始めた。(敬称略)

【リーダーズボイス2019太平洋工業株式会社


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