商社の設立が危機救う

2019年01月07日 14:30

  • パシフィック商工を吸収合併後に新設された新生太平洋工業のプレス機=1954年 
  • パシフィック商工を設立したころの小川哲也 
  • 太平洋工業の営業部門を独立させたパシフィック商工。屋上に地球を背景にPACIFICをデザインし、アピールした 

<海原へ ぎふ財界人列伝>

太平洋工業編(4)戦後混乱期

 苦難続きの戦後。1947年、太平洋工業の営業部門を独立させた商事会社「パシフィック商工」を設立したのは、のちに太平洋工業の第3代社長を務める小川哲也。28歳の若さだった。この会社がのちに太平洋工業が窮地に陥った時、経営危機を救うことになる。

 当時、太平洋工業の取締役だった哲也の起業に向けた考え。「労働問題を抱えて沈滞する太平洋工業にいるのが耐えられない。混沌(こんとん)の中に身を投じて、思い切り仕事をして自分を試してみたい」。もともと起業の思いが強く、独立に反対した社長らを説得して会社誕生にこぎ着けた。

 6歳違いの弟雅久、腹心の部下ら7人を連れて出て、東京の小さなビルの一室を借りて本社とし、資本金15万円の会社の社長に就任した。大垣駅前のガレージを半分借りて営業所に充てた。雅久は後に太平洋工業の第4代社長を務めるが、18歳から東京に居て土地勘もあり、商売好きだった。

 パシフィック商工では、太平洋工業の自動車部品や終戦直後に開発した自転車ペダル、ボックスレンチ、ほかに繊維、金属、雑貨など幅広い商品を販売した。そのころ、太平洋工業は労働争議の渦中にあり、製品を労働組合に押さえられる前に製品すべてを営業倉庫に移し、自動車部品以外は外注工場に造らせてトヨタ自動車を中心に商売をした。哲也は「売れると判断したものは、何でも売った」と述懐した。

 戦後の混迷にあえぐ太平洋工業に代わってプレス製品の受注を増やすなど、パシフィック商工は次第に営業規模を大きくしていった。「苦労は多かったが、自分の思うように働いて成果を上げる快感は何ものにも代え難い。荒波を乗り切って順調に成長した」。哲也は充実感にあふれた。工場閉鎖にまで追い込まれた太平洋工業が、取引先の信頼を失わずに済んだのは、パシフィック商工の若さとバイタリティーあふれる活躍があったからだった。

 しかし一難去って、また一難。自動車、タイヤメーカーからは「あなたのところはメーカーか、商社か」と迫られるようになった。物を買う場合、メーカーから買うのが原則だ、という話が強く打ち出された。これに対し、哲也はパシフィック商工として工場を造る判断をしたが、適当な工場用地が見つからず、資金面からも工場を造る夢は実現できそうもなかった。

 そこで哲也は、飛び出した太平洋工業に戻る決意をする。工場の設備は整っているし、労働争議の後で仕事は空いている。「パシフィック商工を太平洋工業に吸収合併させ、新しい太平洋工業として発展させる」という新たな夢を掲げた。哲也は工場の合理化と新製品を造る新しい経営計画の採用を条件に出し、53年5月、吸収合併が成立した。資本金を800万円に増資し、東京に営業所も開設して新生太平洋工業がスタートを切った。(敬称略)

【リーダーズボイス2019太平洋工業株式会社


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