初の海外進出、台湾へ

2019年01月08日 14:33

  • プレスからメッキ、塗装まで一貫生産の近代的設備を整えた西大垣工場の竣工式で施設を見学する関係者=1960年 
  • 初の海外進出となった台湾の拠点「太平洋汽門工業」=1984年 
  • 1962年に名証2部へ、その後70年には東証、名証とも1部に上場した太平洋工業の株券(見本) 

<海原へ ぎふ財界人列伝>

太平洋工業編(5)夢のある経営

 「夢のある経営」を理念に掲げた小川哲也。その夢は目覚めたら消えてなくなる夢ではなく、目標を意味し、海外進出などの事業を実現していった。

 哲也は中京商業学校(現中京大中京高)時代、修学旅行で中国大陸を訪れ、その活気と桁外れの広大さに驚き、「いつか海外へ飛び出し、世界で勝負してみたい」という夢を抱いていた。

 1955年、当時副社長だった哲也は、日本生産性本部初の欧米視察団員に選ばれ、米国の工場や研究所などをいくつも訪問する機会を得た。米国のスケールの大きさを目の当たりにし、衝撃を受けた哲也は帰国後、早速「生産性向上5カ年運動」に着手した。3億8千万円かけて最新鋭の機械設備をドイツ、米国などから輸入し、当時の南大垣工場を世界水準のバルブ工場に改造した。これはのちの海外進出への布石でもあった。

 59年に出掛けた海外視察ではドイツ、英国など欧州の社会情勢と企業経営を体感。モータリゼーションの進展をつかんで帰国した。大いに刺激を受け、プレス事業の拡大へかじを切った。プレス加工の西大垣工場を建設する計画を立て、広大な約5万6千平方メートルの土地を購入。大型プレス機を導入し、メッキ、塗装まで一貫生産の近代的設備を60年に整え、プレス部門の生産能力は従来の約4倍にもなった。

 だが当初計画では土地は3分の1程度だった。哲也が欧州視察で生産規模を見て電報や手紙で拡大を指示し、帰国後に土地を買い足していた。これが現在のプレス事業を支える基礎にもなった。哲也は「思い切った投資で、身震いするような決断だった。冷静な判断と勇気が要った」と振り返っている。

 「世界の太平洋」を合言葉に、近代経営に取り組んできた太平洋工業。個人企業的な経営から脱却するため、62年に株式を名古屋証券取引所第二部に上場した。上場で資金調達ができ、市場から信頼される企業経営にすべきとの判断だった。テレビ番組で副社長だった哲也は「会社の資金をどのように調達したかは重要」とし、「会社を発展させるため社員にも株主になってもらい飛躍の礎をつくることが大切」と話した。70年には名証、東証とも一部に上場した。

 48歳で第3代社長に就任した哲也は67年、1300人の社員に経営方針を伝え「世界を相手にしよう。世界の企業として成長させたい」と語りかけ、海外展開の考えを示した。

 太平洋工業にとって海外進出は、過去に中国の満州工場を戦火で断念したことがあり、長年の懸案事項。69年にも台湾進出を決定したが、予定した製品が許可されていないことなどから断念した経緯がある。

 その後急激な円高が進み、バルブ事業の採算が悪化した80年代初頭。モーターサイクル用チューブ生産世界一の市場を誇り、太平洋工業の輸出の40%を占めた台湾への進出の機は熟し、最優先と判断した。

 台湾で代理店を行っていた会社と合弁でバルブ事業初の海外拠点「太平洋汽門工業」を84年に設立し、バルブコアの生産を開始。その後、業容拡大でプレス事業も始め、トヨタ自動車の台湾現地法人と取引し、現在は有力プレス部品メーカーに成長している。

 哲也は社長時代、台湾に次いで87年に韓国、88年は米国、89年にタイに相次いで拠点を開設し、海外進出を加速させた。(敬称略)

【リーダーズボイス2019太平洋工業株式会社


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