時代を読み脱自動車化

2019年01月09日 14:36

  • 多角化経営で運営した養老カントリークラブの本開場式典であいさつする小川宗一。左が小川哲也=1978年 
  • 食品関連で製造・販売し、自販機フェアに出展したトーストサンドイッチ自動販売機=1975年 
  • 住宅事業で1971年から安城工場で製造し、年間4万台も生産した厨房用流し台 

<海原へ ぎふ財界人列伝>

太平洋工業編(6)多角化経営

 1971年のドルショックに続き、円の切り上げが実施され世界経済が混迷を極めていたころ、太平洋工業の自動車部品は売上高の75%に達していた。社長の小川哲也は自動車部品への依存度が高く、景気変動の影響を受けることがないよう、それを分散する事業の多角化を早くから考えていた。"脱自動車化"を図るなかで、「新しい仕事の選択肢を持つべきだ」との考えを巡らせ、豊かな発想で自動車部品以外の事業に参入していった。

 レジャーブームに乗って72年に設立したのが、ゴルフ場の養老カントリークラブを経営する太平洋開発。74年には次いでガソリンスタンド経営と不動産販売を行う太平洋産業を設立し、脱自動車化を目指した経営の多角化は、第3次産業への進出と発展した。

 住宅事業を拡充させるため、東芝住宅産業と提携して新設した安城工場では、厨房(ちゅうぼう)用流し台「キッチンエース」を71年から製造し、年間生産台数は4万台にも上った。しかし販売競争が激しい業界の荒波にもまれ、マイナス成長も響いて会社は78年に解散した。

 食品関連では、当時西ドイツ・ヘス社のトーストサンドイッチ自動販売機の特許実施権を取得して、75年から自社で設計し自販機を製造した。ドライブインなどから引き合いがあり、一世を風靡(ふうび)した製品でもあった。食品自販機自体は生産中止になっているが、いまも関東地方などで15台ほどが現役で稼働し、昔懐かしい自販機としてメディアに多く取り上げられた。

 70年代の経済情勢は戦後初のマイナス成長だった。オイルショックは自動車産業を直撃し、自動車の急激な減産が太平洋工業の経営にも跳ね返ってきた。哲也は「日本経済はオイルショックを契機に高度成長に終わりを告げたというが、高度成長が行き詰まっていた時にオイルショックを迎えたと解釈した方がよい」と判断し、低成長期に対応する方向付けを考えていた。

 それは「設備投資ゼロ、人員増加ゼロ、借金ゼロ」の「3つのゼロ運動」。期間限定で、文字通り三つをゼロにする運動を74年から3年間継続した。

 続いて77年からは「5・3・0計画」をスタートさせた。5は製品の5本柱をつくる。3は非自動車部門の売上高を30%にする。0は借金をゼロにする計画で、本格的に多角化経営に乗り出した。製品の5本柱はバルブ、プレスに加え、脱自動車化を目指した住宅設備、食品関連、メカトロの計5部門とした。

 こうして社会、経済情勢を読みながら事業の方向を考えた哲也。経営目標を達成させるため86年から5年間の事業計画「アクション65」を作った。「主要製品の5本柱はできたが、完成ではない。太くて安心な柱もあれば、細くて頼りないものもある。細いものを頑丈で太いものにしないといけない。できれば新しい何本かの柱を作りたい」。さらなる多角化を念頭に置いた。

 哲也のこうした計画や運動には共通点があった。それは数字。社員が情報共有して進めるが、「計画を出す時は明快で、具体的なもの、つまり数字にすると分かりやすい。数字で示した達成目標を明確にした」。哲也が時には非情な意味を持つ数字に敏感な証左だった。(敬称略)

【リーダーズボイス2019太平洋工業株式会社


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