ソフトテニス振興に情熱

2019年01月10日 13:50

  • 会社の全天候型テニス・バレーボールコートが完成し、テープカットを行う小川宗一(中央)=1980年 
  • 第1回軟式庭球日本実業団リーグで優勝した太平洋工業の男子選手ら=1987年 
  • 試合の合間に、テニスラケットを大切に抱える小川宗一=1923年 

<海原へ ぎふ財界人列伝>

太平洋工業編(7)シンボルスポーツ

 太平洋工業は会社のシンボルスポーツとしてソフトテニスの振興に力を入れている。ソフトテニス部が、男女とも全国レベルの大会で日本一の頂点を極める実績も残した。

 ソフトテニスが盛んな背景には、創業者で第2代社長の小川宗一の存在が大きい。宗一は無類のテニス愛好家だった。腕前は国体に出場するほどで、後に日本軟式庭球連盟の副会長も務め、全国区で知られた。

 岐阜国体(1965年)開催の際、大垣市がテニス会場になったのは、競技の誘致に熱心だった大垣商工会議所の副会頭として、テニス界の重鎮の宗一が居たおかげとの逸話が残っている。

 大垣市では夏季競技の水球、秋季大会の自転車、体操、軟式庭球、軟式野球、サッカーの6種目が行われた。秋季大会は最初は3種目だったが、猛烈な誘致運動が実を結び、軟式野球とサッカーが追加された。軟式庭球は戦前から名プレーヤーとして活躍し、県庭球界の発展に力を注いできた宗一の存在を重視し、最初から大垣開催が決まっていたという。

 そんな宗一とテニスとの出合いは小学4年生にまでさかのぼる。担任教師がテニス好きで手ほどきを受けたのがきっかけ。以後、テニスざんまいとなり、国体にも出場して活躍した。「スマートでスピード感のある競技にほれ込んだ」といい、後には選手育成のバックアップも行い、生涯の友とした。

 テニス振興に情熱を注ぐ宗一。太平洋工業は長年企業のシンボルスポーツとして、選手育成に努めた結果、男子は1987年の日本実業団リーグで優勝を果たし、女子は男子に後れること3年後の90年の日本実業団リーグで日本一に輝き、頂点を極めた。宗一は自身が愛したソフトテニスで会社の後輩たちの頂点到達を、大いに喜んだ。

 89年に会長から名誉会長になっていた宗一は、女子の日本一達成を見届けた後、3カ月後の90年7月30日、鬼籍に入った。この月は中旬の梅雨明け以来、連日30度を超す猛暑が続いていた。「私が若く見えるのはテニスのおかげだ」と常に話していた。テニスで鍛えた体力が長命を支えたのかもしれない。

 「太平洋のオガソウ、テニスのオガソウ」の愛称で知られた企業経営の名選手の最期。会社創業60周年を目前に控えた悲報となった。89歳だった。大垣市名誉市民でもあり、葬儀は大垣市市民葬と太平洋工業社葬の合同葬として営まれ、当時トヨタ自動車会長だった豊田英二が駆け付け、弔辞を述べた。

 宗一が亡くなった後は、哲也が県ソフトテニス連盟会長の職を引き継ぎ、95年には第10回世界ソフトテニス選手権大会を岐阜県で開催した。

 90年以降、選手補強を控えたこともあって、男女とも成績が低迷していたが、2012年の「ぎふ清流国体」の開催に向け、地域からも太平洋工業のテニス復活を期待する声が高まり、県から強化指定を受けることになった。

 ソフトテニスを愛した宗一の精神を受け継ぐシンボルスポーツとして、女子は日本リーグに所属し、14年の長崎国体で準優勝を果たすなど現在も活躍を続けている。(敬称略)

【リーダーズボイス2019太平洋工業株式会社


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