「リーマン」乗り越え達成

2019年01月13日 14:22

  • 東日本大震災で工場のある被災地宮城県栗原市への救援物資の出発式であいさつする小川信也(右)=2011年 
  • 投資家らに業績などの情報を提供する「名証IRエキスポ」で説明する小川信也(向こう側右から2人目)=2017年 
  • 連結決算では海外売上高比率が45%を超える。米国テネシー州子会社は大型プレス機を設置し、業容拡大=2016年 

<海原へ ぎふ財界人列伝>

太平洋工業編(10)1000億円企業

 2016年3月期の連結決算で、太平洋工業は初の売上高1000億円を突破した。この期は主要顧客の自動車生産が日本と米国、中国で堅調に推移。4期連続の増収で、売上高は1068億円。営業利益、経常利益、純利益とも過去最高を更新した。

 緊張の面持ちで決算発表に臨んだ小川信也は、「ようやく1千億円企業の仲間入りを果たしたが、今後も持続的な成長を遂げるには、百年企業、1千億円企業にふさわしい企業として企業体質の強化、体制構築を図ることが重要」との思いを示し、決意を新たにした。

 「経営は比較的順調だが、数字は良い時も、悪い時もある」。信也も経営リスクを経験してきた。リーマンショックでは、2009年3月期連結決算で、営業損失4億3700万円を出し、1962年の上場以来初の赤字というつらい経験をした。景気は世界規模で悪化し、信也は「当社だけでなく全部がダウンした。世界恐慌であり、急ブレーキをかけて止まらないといけない」と判断。「不要不急以外の投資はやらない。固定費を圧縮する」といった対策に出た。

 戦略的な投資は3年間ぴたりと止め、ボールペン1本から徹底的に経費を削減するなど原価革新活動を推進した。リーマンショックの3年ほど前から年間投資140億円という大型投資を進めていたが、事前の攻めの投資が功を奏し、景気回復の波にいち早く乗ることができ、1年で黒字化を果たした。

 自然災害も経営リスクになる。2011年3月11日、東日本大震災が発生。その時信也は出張で台湾に居た。テレビで津波が陸地を襲う映像を見て、翌朝一番の飛行機に変更して緊急帰国した。宮城県に進出して間もない栗原工場は、最大震度7の揺れで被災し、本社には対策本部が立ち上がっていた。幸いにも栗原工場の社員、家族は全員無事だったが、その安否確認ができたのは発生から3日後だった。

 災害の復旧対応で「復旧対象は会社だけでよいのか」との考えが浮かび、当時の栗原市長の佐藤勇へ電話し、支援物資は今は何が必要かを聞いた。これは普段から身に付いている、トヨタ自動車のトヨタ生産方式の考え方「必要なものを必要なときに必要な分だけ」が生かされた。

 まず大垣市長の小川敏に連絡を取り、救援物資を貸してくれるよう頼み込んだ。次にセイノーホールディングス社長の田口義隆に物資を現地まで運ぶトラックを貸してもらえないかと依頼。軽油が欲しいという栗原市の要望を受けイビデン産業には軽油のタンクローリーを1台お願いした。大垣市は復旧支援の旗を提供してくれ、セイノーホールディングスは被災地宮城県に土地勘のある運転手も出してくれた。

 後に大垣市と栗原市は「災害時相互応援協定」を締結したが、こうした縁で太平洋工業が橋渡し役をした。大規模災害時に自助、共助、公助の連携の重要性を痛感した。

 震災後には、それまで栗原市から賃借していた土地、工場を購入し、真の企業市民として地域の一員となることにつながった。こうした震災の経験から信也は、「リスクに対応するには、想定外を想定内にし、訓練に努め、初動対応ができるようにすることが大切」と胸に刻む。(敬称略)

【リーダーズボイス2019太平洋工業株式会社


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