建物疎開の命令書発見「10日で立ち退け」

2019年07月02日 07:40

  • 見つかった建物疎開の「譲渡令書」。県知事名で譲渡を命じている 
  • 岐阜空襲1カ月前の岐阜市。右下の岐阜駅から現在の長良橋通りと若宮町通りに沿った家屋が十字形に無くなっている=1945年6月9日、米軍撮影(岐阜空襲を記録する会提供) 
  • 建物疎開の際に運び出され、焼失を免れたとみられる「聖卓」や漢文の聖句を前にする相原太郎さん=6月15日、岐阜市金町、岐阜聖パウロ教会 

 太平洋戦争末期の米軍の空襲に備えて家屋を事前に取り壊す「建物疎開」のため、建物の譲り渡しを強制する県知事名の命令書が、岐阜市内で見つかった。市街地の延焼を食い止める防火帯「百メートル防空路」を造るのが目的だが、命令から譲渡までわずか10日という性急さ。研究者は「当時の民間防空の手続きを知る上で貴重な史料」と指摘する。

 文書は1945年4月25日付でB4判1枚の「譲渡令書」。5月5日までに現在の市役所南庁舎敷地(神田町)にあった「岐阜聖公会」(現岐阜聖パウロ教会)の木造教会など4棟を譲渡するよう命じている。

 同市の建物疎開は、同年3月10日の東京大空襲を機に浮上した。被災状況を視察した松尾国松市長(当時)は、「我々市民はこの(政府の)指導をうけて欣然(=喜んで)命令指揮に服従しこれが実施を推進せしめなければならない」(同月28日付岐阜合同新聞)と表明。同日の市会は全会一致で原案を可決した。

 範囲は岐阜駅から北に向かう幅15メートルほどの神田町通り(現在の長良橋通り)の約2キロと、若宮町を中心にした東西約1・3キロをそれぞれ幅100メートルの十字形に広げる計画で、立ち退き対象は3千戸に上った。

 当時、岐阜市立中学(現在の岐阜北高校)の生徒だった林邦隆さん(88)=同市加納本町=は、取り壊しに学年総出で駆り出された。「大黒柱の下に綱引きの縄を巻き付けて、大勢で『いーち、にーい、さーん』って。家がダダーンって土ぼこりを上げて、いっぺんにつぶれてね」

 作業には軍服姿の在郷軍人が立ち会い、居残った住人は「はよのけーっ」と無理やり連れ出された。泣いている人もいたという。

 08年に建てられた聖公会の教会は重厚な木造2階建てで、1階は幼稚園だった。周囲にカフェや女郎屋、茶わん屋などが立ち並ぶにぎやかな場所だったが、隣接する郵便局以外は立ち退きの対象に。当時の小笠原重二牧師の長女美重子さん(84)は「(取り壊し前後は)子どもは寄りつけなかった」と振り返る。

 こうした対策にもかかわらず、45年7月9日の岐阜空襲では市街地は焼け野原になり、市内の総戸数の半数の約2万戸が焼失した。

 同教会は補償金などを基に47年、約400メートル南西の金町で再建。疎開時に運び出した聖卓や洗礼盤などの祭具が、来年創立130年の歴史を今に伝える。「岐阜空襲を記録する会」の篠崎喜樹代表(84)は「結果的に貴重な祭具が残ったのは皮肉なことだ」と指摘した。

 今回の史料は、3日に同市司町のみんなの森ぎふメディアコスモスで始まる企画展「お宮さんもお寺さんも火に追われた」(市主催)の調査の過程で見つかった。

 「譲渡令書」を保管していた同教会の相原太郎さん(48)は「皆で話し合い、お金を出し合って造った教会は、祈りをささげ、子どもたちも遊んだ思い出の場所だったはず。戦争だから仕方ないというムードの中、積み上げたものが紙1枚で塗りつぶされていく怖さを感じた」と話した。


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