白川郷で一向一揆か 門徒非難の書状を入手、白川村のNPO

2019年07月11日 08:25

蓮如が一向一揆について記したとみられる書状(白川郷耕雲塾提供)

蓮如が一向一揆について記したとみられる書状(白川郷耕雲塾提供)

 白川郷(岐阜県大野郡白川村)で戦国時代に北陸の真宗門徒を巻き込んだ一向一揆があった可能性が、本願寺中興の祖である蓮如の書状から分かった。発生年や詳細は研究途中にあるが、「一向一揆を巡る歴史の中で、白川郷も深く関わっていることが示されている」として、白川村のNPO白川郷耕雲塾は10日、書状を京都市の美術商から750万円で購入した。蓮如が一向一揆について記した書状は珍しく、研究者も「第一級の史料」と認める。

 耕雲塾などの研究によると、飛騨に真宗を開いた白川善俊(ぜんしゅん)(嘉念坊善俊)の没後、門徒が1488年に白川郷地頭の内ケ島為氏(ためうじ)を襲撃し、報復として為氏は白川郷の飯島正蓮寺を焼き討ちにするという衝突があった。耕雲塾は、これを受けて一揆が89年の春に起こり、秋まで続いたと推察する。

 一方、蓮如研究者で本願寺史料研究所(京都市)元副所長の金龍静さん(70)は、筆跡や花押から書状はほぼ真筆であるとしながらも「花押は最晩年のもので、書かれたのは明応期(92年以降)」と指摘。「89年ではないが、白川郷で一揆があったのかもしれない」と見解を示す。

 書状は蓮如が、加賀一向一揆の拠点だった山田光教寺=石川県加賀市=にいた四男蓮誓(れんせい)(光闡坊(こうせんぼう))に宛てたもの。書き出しは「白川善俊跡民部親子、松若事、所之対地頭取弓箭候之間、言語道断事候」。耕雲塾は、善俊門徒と越前、加賀などの一向一揆連合が、室町幕府奉公衆(親衛隊)で地頭の内ケ島家に歯向かったのは言語道断だと断じたと読み取る。

 88年に加賀で一向一揆があり、当時の蓮如は幕府から責任を問われ、討伐されそうな苦境にあった。耕雲塾の板谷本一事務局長(60)は「蓮如は書状で蓮誓に、白川郷の一揆に加わらないで制止してほしいとの思いを伝えたのではないか。幕府は、一揆が鎮圧されないことを大義名分に、蓮如討伐を実行に移しかねなかった」と分析する。

 蓮如は、89年8月に本願寺8世を引退。その後、内ケ島家が本願寺門徒になることなどを条件に善俊門徒と和睦、一揆は終結したと耕雲塾はみる。

 金龍さんは、書状の歴史的価値について「蓮如が一揆について記したものは、加賀一向一揆を叱った『お叱りの御文』ぐらいしかなく、別の一揆についての書状は初めてで、第一級の史料」と強調する。

 耕雲塾は約10年前、書状の存在を把握。村民らに寄付を募って購入に至った。板谷事務局長は「戦国時代のキーパーソンが『白川』の文字を残していたことは大変興味深い。書状はまだ精査が必要だが、白川村にとって重要な宝になると思う」と話している。

 【一向一揆】 室町中期以降、約1世紀にわたって頻発した浄土真宗(一向宗)門徒が起こした反権力闘争。地侍や農民らで組織する。1488年の加賀一向一揆(長享一揆)では、守護富樫政親を自殺に追い込み、加賀を支配して勢力を誇示した。他に越中、三河、石山合戦、長島などの一揆が知られる。


カテゴリ: 社会

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