若者よ政治に参加を 没後100年、板垣退助の功績は死せず 

2019年07月15日 08:17

「板垣退助遭難の地」として建立された銅像。現代の岐阜の政治、若者をどう見つめているのか=12日、岐阜市大宮町、岐阜公園

「板垣退助遭難の地」として建立された銅像。現代の岐阜の政治、若者をどう見つめているのか=12日、岐阜市大宮町、岐阜公園

 自由民権運動を主導した明治期の政治家、板垣退助(1837~1919年)が他界して16日で100年になる。岐阜での遊説で暴漢に襲われた際に発したと伝えられる「板垣死すとも自由は死せず」の文言は後世に語り継がれ、岐阜市大宮町の岐阜公園には板垣の銅像が立つ。国民の政治参加や言論の自由を求めた運動は当時、民衆を巻き込んだ大きなうねりとなったが、国民が主権者となった現代、若者の間には政治への無関心が渦巻く。「国を思うなら政治に声を」。参院選の投開票(21日)まで1週間を切る中、学生らが政治を動かそうと積極的に運動する海外の出身者は、日本の若者への歯がゆさをにじませた。

 「板垣君ノ遭難ハ実ニ国家ノ重事ナリ」。1882年4月、日本初の近代政党・自由党の党首だった板垣が岐阜市内で刺された「岐阜事件」について、本紙(当時・岐阜日日新聞)社説はそう伝えている。騒動を知った全国各地の自由党員が岐阜へ応援に入り、一気に運動の中心地へと躍り出る。

 岐阜は事件以前、自由民権運動の盛んな地域ではなかったといわれる。81年の同党結成後、県内にも「濃飛自由党」ができたが、主導した岩田徳義は愛知県三河地方の士族だった。

 襲撃現場からほど近い公園に立つ銅像は、1950年に設けられた3代目だ。初代は17年に建ったが、戦時中の金属供出で撤去されている。公園に隣接する市歴史博物館で館長を務めた黒田隆志さん(63)=同市=は学芸員の頃、行方が分からなくなっていた2代目に当たるコンクリート製の胸像を偶然、園内で発見した。

 岐阜での運動への関心の低さについて「生活水準の高い人が多かったのか、反体制的な動きには結びつきにくかったようだ」と指摘する。「士族を中心にした大垣の運動など、個々が勝手にやっていたものが事件を機に一挙にまとまった」。そこには10、20代の若者の姿があったという。だが、デフレ政策の影響から農民は窮乏し、県内の運動は急速にしぼんでいく。

 板垣の没後1世紀。参院選の投票率は岐阜選挙区では2010年以降、60%を割り込んでいる。前回16年の年代別(抽出)では20代が35・60%で全体を約20ポイント下回り、全世代で最も低かった。20代は板垣の肖像が使われた紙幣にはなじみのない世代だ。各務原市の大学生(20)は「政治の話は取っつきにくい。自分で情報を集めようとしている学生も少ない」。投票には行くつもりだが、投票先の判断には迷いがある。改憲や年金の問題に声を上げる国会前の集会が熱を帯びる一方、岐阜の街は静かだ。岐阜市の大学生(20)は「デモは意味がないと思ってしまうし、何だか怖い」。言論の自由を訴え奔走した板垣たちの時代は遠くなった。

 香港では先月から、犯罪容疑者の中国本土への引き渡しを認める逃亡犯条例の改正に反対の声を上げる若者を中心としたデモが続く。香港出身の柔道整復師の男性(39)=岐阜市=はニュースでデモに触れるたび、日本の若者にもどかしさを感じている。「政治への諦めが強いのかもしれない。魅力よりも不信感が先に立つのは政治家の責任でもある」。それでも「先人のように自分たちの国を思うなら投票に行き、声を上げてほしい。変えたいと願う事があって、そのために行動することは決して悪いことじゃない」。板垣の声を代弁するように訴えた。

 【板垣退助】 土佐国高知城下中島町(現高知市)出身。明治維新以降の政界で多大な影響力を持ち、明治新政府の要職を歴任したが征韓論争に敗れ、西郷隆盛らと共に下野。自由民権運動を主導し、全国各地を遊説した。1890年の帝国議会創設後は、第2次伊藤博文内閣や第1次大隈重信内閣で内務大臣を務めた。1900年に政界を引退後は、障害者福祉など社会事業に尽力した。戦後、百円札の肖像に採用された。


カテゴリ: 政治・行政 社会