江戸時代にも長良川で大輪 藩主歓迎や飢饉復興祝い花火

2019年07月17日 08:54

  • 加納藩の村人が開いた花火大会は、小紅河原など現在の鏡島大橋付近の右岸が会場になった=岐阜市鏡島、長良川河畔 
  • 昨年の全国花火大会。金華山を背に豪快なワイドスターマインが夜空を彩った=岐阜市早田、金華橋付近 

 夏の夜空を彩る「岐阜新聞社、岐阜放送花火シリーズ」が20日にいよいよ開幕する。なかでも、8月3日に岐阜市の長良川河畔で開かれる全国花火大会は、今年で74回を数え、1300年以上の歴史を持つ鵜飼と並ぶ夏の風物詩。現代のような打ち上げ花火を楽しむ行事は、昔もあったのだろうか。長良川花火の歴史を調べてみると、江戸時代に大飢饉(ききん)から復興した喜びなどを表し、村人たちが花火を打ち上げていたことが分かった。

 戦後の長良川花火は、太平洋戦争が終わった翌年の1946(昭和21)年8月10日、「復興・岐阜」の願いを込めて開かれた全国煙火大会が皮切り。現在は全国花火大会の名で広く親しまれている。

 これ以前の花火大会はあまり知られていないが、少なくとも江戸時代には花火が上げられていたという。元岐阜市歴史博物館学芸員で、現犬山城白帝文庫(愛知県犬山市)の筧(かけひ)真理子主任学芸員によると、1733(享保18)年に当時の尾張藩主徳川宗春が同藩の飛び地領だった「岐阜町」を訪れ、鵜飼見物の後に長良川の花火を見ている。藩の文書には「鵜飼後、花火大分、此景気見物、難尽筆候」(鵜飼後に花火がたくさん上がった。この雰囲気は見もので、筆舌に尽くしがたい)とある。地元の呉服商の安川家文書には「花火多ク御座候、徳田より花火師参候由、珍敷花火共有之」(現在の羽島郡岐南町から花火師が参り、珍しい花火なども複数あった)と書かれている。

 筧さんは「岐阜町の町人が上げた花火。藩主を歓迎するための花火だろう。奉行所も認めていたはずで、今でいえば商工会議所と市役所の共催に近い。質素倹約の8代将軍徳川吉宗の時代だったが、宗春は倹約だけでは経済が回らないと考える人物だった。許可されたのは経済を活性化させる狙いもあったからでは」と花火の意味を推測する。

 それから半世紀がたち、隣の加納藩では村人が資金を出し合って花火を打ち上げた。長良川河畔では1781(天明元)年、83年、89(寛政元)年。加納藩の下級武士田辺家の日記に記述がある。81、83年は東島村東堤(現在の岐阜市・鏡島大橋付近の右岸)、89年は「小紅の渡し」の小紅河原で開かれた。81年は「新規のこと」といい、89年は大飢饉からの復興を祝って行われ、同藩主の永井直旧(なおひさ)も観覧に訪れた。長良川河畔ではなさそうだが、1794年には東島村の祭りで若者たちが花火を80発打ち上げた。滝や縄火、流星などの仕掛け花火も披露されたという。これらの開催時期は89年以外は、旧暦の8月だった。

 日記を解読した地方史研究家の西村覺良(かくりょう)さん(76)=山県市大桑=は「加納藩の村人が上げた花火は藩主のための花火ではない。先祖の霊を供養する精霊送りの意味や豊作の喜びなど、庶民の思いや願いが込められていたと思う」と読み解く。その上で「現代の花火大会も長良川の先人たちに学び、単に商業的なショーとしてではなく、自分たちの思いや願いを込めながら楽しみたい」と話す。


カテゴリ: くらし・文化 エンタメ