海なし県から「こんぶ飴」 ソフト化でヒット

2020年05月24日 08:05

  • 浪速製菓のこんぶ飴。添加物は一切使わず、素材本来の味わいにこだわっている 
  • 看板商品のこんぶ飴を手に持つ山田誠社長=本巣市温井、浪速製菓 
  • 創業者の山田眞澄さん(浪速製菓提供) 
  • 工場が併設された本社。全国で売られるこんぶ飴はここで製造されている=本巣市温井、浪速製菓 
  • 昭和初期に使われていたというポスター 

◆大阪で昆布文化と運命的な出会い

 適度な甘さや歯応え、海藻の風味が癖になり、なおかつ栄養豊富ときて、全国に根強いファンがいる「こんぶ飴(あめ)」。海藻をあめにするという奇想天外な発想で、こんぶ飴というジャンルを確立した先駆者は、本巣市温井の菓子メーカー「浪速製菓」だった。「岐阜発」こんぶ飴は、県民と関西の昆布食文化の出会いから生まれた。

 こんぶ飴が日本に誕生し、お菓子として売られるようになったのは今から90年ほど前。昆布の産地といえば北海道だが、実は大阪など関西地方でもよく消費される。江戸時代に北海道から各地の港をつないだ北前船の航路は別名「昆布ロード」とも呼ばれ、運び込まれた昆布は、各地で多様な食文化を育んだ。終着地の大阪では、とろろ昆布やおぼろ昆布などの加工品が生まれたり、つくだ煮として調理されたりし、日常的に庶民が口にしていた。

◇なじみ薄い?

 一方、県内では関西に比べ昆布料理になじみが薄いとみられる。参考ながら、総務省家計調査の1世帯当たりの品目別年間支出金額(2人以上の世帯)のデータを2017年から19年の間で平均すると、昆布への支出額が都道府県庁所在地や政令市の中で最も少ないのは岐阜市という。昆布食になじみが薄いらしい「海なし県」からこんぶ飴はどのように生まれたのか。

◇自然のうま味

 同社は、3代目の山田誠社長(58)の祖父で、山県郡(現・岐阜市)で生まれ育った山田眞澄さん(1901~88年)が大阪で創業した。眞澄さんは10代後半で「商人の街で商いをしたい」と大阪に行き、昆布文化に触れた。眞澄さんは「手軽に食べられないか」と菓子製造を思い立つ。店先や街頭で試食品を配り改良を重ねた。

 27年、眞澄さんは手応えをつかみ、こんぶ飴のトレードマークを商標登録。現在の大阪市中央区難波で会社の前身、浪速製菓合資会社を立ち上げた。

 しかし太平洋戦争に入ると眞澄さんは泣く泣く工場を畳み、故郷の岐阜に疎開した。戦後「眞澄さんのこんぶ飴をまた食べたい」という卸売り業者やファンの声に背中を押され、「日本の中心の岐阜なら、流通にも便利」と岐阜市神明町で51年、事業を再開した。貧しい時代に甘い菓子は非常に重宝されたという。

◇「軟らかいものを」世の中敏感に察知

 創業当初はキャラメルタイプの硬い菓子だったが、現在の同社の代名詞「ナニワのソフトこんぶ飴」は軟らかいのが売り。それは60年、眞澄さんと息子で現会長の博司さん(85)が、世の中の人が軟らかいものを求めていると敏感に察知し、菓子業界の中でも先駆け的にソフト化に取り組んだことで実現した。「ソフト」という横文字を菓子の名称に取り入れることは当時としては目新しく、瞬く間にヒット。高度経済成長やバブル、時々の健康ブームの波に乗って成長し、同社の屋台骨を半世紀にわたり支えてきた。

 現在も同社以外の数社が同様の商品を製造しているが、同社のこんぶ飴は昆布と水あめ、砂糖、でんぷんの四つの原材料だけでできている。保存料や香料を使わず自然のうま味を生かそうとする基本的な製法は創業当時から変わらない。同社によると、売れ行きは地域に偏りはなく購買層は年配者が中心という。販売している岐阜市内の小売店の従業員の女性は「好きな人はいつも買っていく印象。私も好き」と話す。

 「先駆者」を引き継ぐ山田社長は「体にいいものをと長年、こんぶ飴一筋でやってきた。今後も守り続けていきたい」と情熱を込める。


カテゴリ: グルメ 経済