岐阜新聞Web

  • 美濃
  • 飛騨
  • 美濃
  • 飛騨


岐阜県なぜ現在の県域に?実は二転三転



 織田信長の時代から続く「岐阜」を県名にする岐阜県。そもそも、なぜ現在の県域になったの? 歴史を調べると、岐阜県の誕生は1872年1月2日(旧暦明治4年11月22日)のこと。この時、飛騨地方は別の県だったが5年後に岐阜県と統合し、ほぼ現在の県域となった。明治維新の試行錯誤の末に線引きされた行政区画であり、その歴史は150年ほど。日本の長い歴史の中で見れば、岐阜県民による岐阜県の歴史はまだ始まったばかりだ。

 「経済的なつながりを考えるなら美濃が愛知県、飛騨が富山県という線引きもあり得たかもしれない」とは、県内の歴史に詳しい郷土史家の松尾一(いち)氏(73)=岐阜市=。結果的に、古代からの美濃国と飛騨国が一つになったのが岐阜県のベースだが、県のくくり方は二転三転。飛騨は当初、現在の長野県の一部地域とくっついた。県域は、昭和や平成の大合併で多少広がったが、美濃と飛騨が一つになった歴史が大きい。

 県史によると、美濃では明治4年7月の廃藩置県を経て旧幕府領を中心とした笠松県と、旧藩領の大垣、加納、岩村、郡上、苗木といった8県が置かれ、名古屋県など美濃国外の県の飛び地もあった。これら美濃に点在する県や飛び地を同4年11月22日、全て「岐阜県」として統合したのが岐阜県の始まりだ。

 一方、飛騨は一国まるごと幕府領で最初、飛騨県の名を充てたが、すぐに高山県に改称。廃藩置県で同4年11月20日、信濃国の中・南部地域と一つにして「筑摩(ちくま)県」としたものの5年で廃県。飛騨は同9年8月21日、岐阜県に入った。

 飛騨の人は驚いた。岐阜市の県歴史資料館に当時の史料が残っている。飛騨を岐阜県の管轄とすることを通達した右大臣・岩倉具視(ともみ)の文書と、通達を受けて飛騨の下原村(現・下呂市金山町)の戸長が大区長に宛てた手紙だ。戸長は「愕然(がくぜん)の至り」と驚きをもって受け止めた。ただ、同館学芸員の入江康太氏(40)によると、この戸長、飛騨はいずれ岐阜県に入ると予想していた。もっとも、美濃に近い下原村の話。入江氏は「飛騨北部では違う受け止め方だったかもしれない」と考える。

 明治維新で、中央集権国家を目指した明治政府。全国の土地や人を直接支配して全国一律の行政を進めるため、地方分権の江戸時代に細分化、複雑化していた土地をまとめた。県は、その行政区画の一つだ。明治維新前後の歴史に詳しい名古屋大名誉教授の羽賀祥二氏(67)=加茂郡八百津町出身、愛知県在住=は、県のくくり方で「地理的な要素は大きい」とし、筑摩県廃止は飛騨と信濃との交通が不便だったからと指摘。さらに飛騨が富山県とくっつかなかった要因として、石川県の存在を挙げる。

 同9年8月21日、石川県は現在の福井県嶺北地域から富山県までを含む巨大な県になった。飛騨が富山とくっつくには石川県に入らなければならず、羽賀氏は「飛騨を石川県に含めるのはさすがに無理がある」と話す。分県運動が起こり、富山県が分離独立したのは同16年。飛騨はすでに岐阜県になっていた。

 その上で八百津出身の羽賀氏。「名古屋に出る方が便利だったので県人意識が低い。行政上の区画が、どの程度、住民意識を変えているのだろうか」と、県が持つ意味を問う。地形や河川、交通などの影響で、各圏域が独自の文化や産業を育んできた岐阜県。"県人意識"を醸成するには、もっと長い年月が必要なのかもしれない。

カテゴリ: くらし・文化 動画 社会