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輪中なぜできた?かつて湿地帯 災害時の団結先取り



 1959年の伊勢湾台風や、直近では今年7月に岐阜県内を襲った豪雨など、長年にわたって水害に悩まされてきた岐阜県。なかでも木曽三川が集中する、安八郡南部や海津市などの西南濃地域では、洪水から集落を守るための知恵として、住民たちは周囲を堤防で囲む「輪中」を築き、特有の生活を育んできた。県の公立小学校の社会科でも紹介されるなど県民にとってなじみ深い輪中は、そもそもなぜできたのか。そこにはどんな生活があったのか、改めて振り返った。

 輪中は、川の流れの直撃を防ぐために上流に面した部分に築かれた、U字型やV字型の堤防「尻無堤」や「築捨堤」が当初の姿。次いで、下流から逆流してくる水を防ぐために堤防を築いたことでできたという。

 現在の輪中地帯はかつて湿地帯だった。「本来なら住めない地域に住んだ結果として輪中が生まれた」と語るのは、大垣輪中研究会(大垣市)の伊藤憲司代表。伊藤さんによると、輪中ができたのは江戸時代初期。戦国時代を経て安定した統治が始まって経済が発展、新田開発が盛んになったことも追い風に次々と輪中集落が誕生した。明治の初め頃には西南濃地域を中心に約80の輪中があったという。

 多くの輪中が生まれた背景には、地理的な事情も重なる。水源がそれぞれ異なる長良川、揖斐川、木曽川の大規模な河川が集中する上に、地形は東高西低。増水した木曽川が長良川や揖斐川に流れ込むことがあったことから、木曽川以西には特に集中していたという。輪中のような堤防は他県でも造られたが、伊藤さんは「これだけ集中しているのは珍しい」と話す。

 周囲を河川に囲まれた輪中集落では、特有の農業方法や生活文化が生まれた。大垣市入方の「輪中館」と「輪中生活館」ではその一端を紹介している。輪中館では、田や畑を洪水被害から守るために工夫を凝らした農耕法「堀田」を紹介している。土を掘りその土を積み重ね田畑を高くして、周りは水路にして舟で行き来していた。地主建築の民家「旧名和邸」を解体、復元した輪中生活館では、洪水時に生命や財産を守る場所として、母屋より高い場所に石垣を築いて建てた「水屋」や、万一の際に逃げられるように避難用の小舟をつるしておく「上げ舟」が玄関先の土間に展示され、当時の暮らしを再現している。

 こうした独特の生活と合わせて、輪中地域特有の気風としてちまたでささやかれているのが「輪中根性」なる言葉。「仲間内の結束は固いが排他的」というような負の印象を持って語られることが多い言葉を、当人たちはどう考えているのか。町内一帯にあった福束輪中からその名を取られたという安八郡輪之内町の木野隆之町長に疑問をぶつけてみた。同町で生まれ育った木野町長は「それほど日常的に使われているわけではない」とした上で「『日常生活を維持するために、どう災害に備えるか』という意識による結束が、外側から見ると入りにくいように見えるのではないか」とみる。その上で、「災害時に必要な『自助や共助』の考え方を先取りしていたのではないか」と指摘した。

 「輪中根性」には決して他者を避ける意図はなかった。厳しい自然と闘うための団結心、これからも襲ってくるであろう災害に負けないために必要な心構えだったのだ。

カテゴリ: くらし・文化 動画 社会