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本堂壁に「天正六年」落書きや羽子板 御嵩町の願興寺、解体修理で新事実 



 岐阜県可児郡御嵩町御嵩の古刹・願興寺。10年がかりの大規模解体修理に入っている本堂(国重要文化財)の解体が完了し、骨組みや基礎など今まで見ることがなかった部分が姿を現した。2017年11月の着工以来、解体しなければ分からなかった多くの事実が浮かび上がってきた。解体現場に入り、成果を取材した。

 防音シートに覆われた現場の中に入ると、そこにかつての本堂の姿はなく、周囲に組まれた足場に柱や梁(はり)などが整理された状態で並べられていた。工事を行う公益財団法人「文化財建造物保存技術協会」の内山都伊美さん(59)は「柱などの取り替えは極力避ける」と話す。傷んでいる部分は削って新しい材料を接着したり、強度が必要な場合は金具で補強して、使えるものは全て残す。新しい材料には、違和感をなくすため古色を付けるという。

 願興寺は815年、天台宗の開祖最澄が布施屋(無料宿泊所)を建てたのが始まり。本尊・薬師如来像や四天王像など24体が国重要文化財に指定されている。本堂は戦火で2回の焼失を経て1581年に再建されて以降440年が経過し、老朽化が進んでいた。

 本堂の中に、薬師如来像を安置するための宮殿(くうでん)がある。解体作業で、宮殿の周りの板を外して出てきたのは、壁に墨で書かれた無数の落書き。宮殿は後から建立されたため、元々本堂の壁にあった落書きを隠すため化粧板をはったとみられる。そこには旅人が書いた「天正六年」との記載があった。寺伝「大寺記」には、再建は天正9年と書かれており、御嵩町の学芸員栗谷本真さん(50)は「『天正六年』の記載は複数見つかり、それぞれ別人が書いたようだ。再建した年が早まるかもしれない」と話す。

 本堂の礎石(そせき)には焼かれた跡があった。1572年に武田軍の手によって本堂が焼失し、その後の再建時に礎石をそのまま使ったため、跡が残ったとみられる。礎石の下を調査すれば、再建前の本堂の位置、大きさが判明する可能性がある。また、柱にはスギ、ヒノキ、ケヤキ、ムクノキ、エノキなど9種類の木材が使われていたことも分かった。大寺記には再建について「貧家犁人(れいじん)(田を耕す人)ノ力ニテ、此大営ヲ成セシナリ」との記載があることから、当時の住民が柱や板を持ち寄ったと考えられ、バラバラの樹種は、この内容と符合する。ほかにも子どもの成長を願って壁面に打ち付けられた羽子板や、宮殿の建立年を書いた棟札(むなふだ)も見つかった。

 再建後に9回の修理を行っているため、柱などの部材は一部取り替わっているという。町は7月まで現場の試掘調査を行う。栗谷本さんは「落書きが許されていたことや、柱の樹種などから、庶民に開かれた寺と裏付けられた。今後の試掘調査で新たな歴史が明らかになると面白い」と話している。

カテゴリ: 動画 社会