岐阜新聞Web

  • 美濃
  • 飛騨
  • 美濃
  • 飛騨


学校給食の先進地「岐阜県」大正期に導入、実施数日本一 味噌汁でカロリー計算



  • 給食を配膳する児童=3月、中津川市川上、川上小学校ランチルーム 
  • 国立栄養研究所初代所長の佐伯矩とともに学校給食を研究した原徹一 
  • 新型コロナウイルス感染予防で前を向いて静かに給食を味わう児童。おしゃべりをしながら全校みんなで食べる日を心待ちにしている=3月、中津川市川上、川上小学校ランチルーム 

 おいしくて栄養バランスの取れた学校給食。毎日楽しみにしていた人も多いだろう。実は岐阜県は、そんな優れた学校給食の先進地だった。先駆けの地は旧恵那郡川上村(現中津川市川上)。力を尽くしたのも同村出身の医学者だった。大正時代に子どもの体づくりのため「食育」の考えを取り入れた精神は、現代にも引き継がれている。

 学校給食自体は、1889(明治22)年に山形県鶴岡町(現鶴岡市)の私立忠愛小学校で行われたのが始まりとされる。ただ、生活が苦しい家庭の子どもを対象に提供され、貧困児童を救済する目的が強かった。

 栄養改善を目的とした給食が始まったのは大正期に入ってからだ。栄養学を創始した佐伯矩(ただす)の指導で1919(大正8)年には東京府(当時)でパンによる学校給食が実施され、栄養価を考えたパンが提供された。

 21年には東京から遠く離れた川上村に給食を持ち込んだのは、栄養研究所で佐伯から指導を受けていた同村出身の医学者原徹一(てついち)だった。佐伯の考えに感銘を受け、住民の栄養改善を図る意識啓発に力を入れ、川上小学校で給食の実施を進めていった。

 児童が弁当を持参するため、献立は主に副食の味噌(みそ)汁で、地元の味噌や豆腐、油揚げ、ネギ、煮干しが具材。豚脂を使うこともあった。1人分のカロリー計算をし、冬季に1日約250人の子どもに提供した。冷えた弁当に温かい味噌汁が加わり、児童の食欲も高まったという。岐阜県教育史によると、22年の文部省調査で確認された全国の小学校の給食実施校は11校で、体格向上と栄養増進を目的にしたのは川上小だけだった。同校の給食を報じた23年8月3日の東京朝日新聞の記事で佐伯は「全校の児童を栄養するために供食してゐ(い)る小学校が日本にたつ(っ)た一つある」と紹介した。

 原の「学校給食と献立の栄養学」によると、昭和初めの献立は味噌汁が最多だったことからも各地に川上から広まったことがうかがえる。30(昭和5)年の文部省調査では実施校129校のうち岐阜が29校、広島18校、東京12校だった。岐阜県教育史には「大正末から昭和のはじめにかけて、学校給食の実施数において本県は日本一であった」と記されている。女子栄養大名誉教授の金田雅代さん(76)=同市千旦林=は「現在も岐阜県の給食は全国の中でも優れている。しっかりとした学校給食の制度があるのも原さんの研究があったからだと思う」とたたえる。

 原の尽力があったとはいえ、近代化が進行した都市部ではなく、なぜ山村地域の川上で可能だったのか。同市史編さん室郷土資料調査員の近藤信幸さん(71)=同市苗木=は「川上村は林業をなりわいとし、山が生み出す利益を上手に給食費に充てることができた。実験的な取り組みだったが、その後も村でずっと続いた」と説明する。近藤さんは、村民がバケツに入ったうどんを食べながら村政や教育について語る「バケツ会」も背景にあったという。「教育に対して熱心に議論する雰囲気が村に根付いていた」と考える。

 川上では「川上村の三賢人」の1人として原をたたえており、川上小の3年生は総合学習の授業で原について学ぶ。4年生の男児(9)は「自分がやるべきことをやった人なのですごい」と話す。全校児童33人は、原の遺産というべき学校給食をいつも楽しみにしている。

カテゴリ: くらし・文化 教育 社会