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最多のテスト機、空へ 旧日本軍・各務原飛行場、「ゼロ戦」も初飛行



  • 各務原上空を飛ぶ甲式四型戦闘機の編隊(各務原市歴史民俗資料館提供) 
  • 各務原飛行場で行われた航空兵演習の様子。飛行機が離陸しようとしている(各務原市歴史民俗資料館提供) 

 1939年4月1日、日の丸を付けた1機の戦闘機が各務原の上空を飛んだ。十二試艦上戦闘機。後に零式艦上戦闘機(ゼロ戦)と名付けられる戦闘機の初飛行だ。現在、航空自衛隊岐阜基地(岐阜県各務原市)となっている一帯はかつて、旧日本軍の各務原飛行場だった。戦地に投入される多くの航空機のテスト飛行は、この飛行場で行われた。その数は終戦までに61機種。実は日本で最も多く「初飛行」が行われた飛行場だったのだ。

 どうして各務原に飛行場が整備されたのか。岐阜かかみがはら航空宇宙博物館(同市下切町)によると、同市那加地区は、6千年前までに御嶽山の火山灰が積もってできた台地だった。農業には不向きな土地だったため江戸時代までは広大な荒れ地のままで、明治時代には軍の大砲演習場となっていた歴史がある。第1次世界大戦を経て戦争における航空機の重要性が高まると、陸軍は演習場の広大な土地を利用して飛行場建設を計画。1917年、長さ約6キロもの滑走路を持つ日本最大規模の飛行場が完成した。

 所沢飛行場(埼玉県)に設置された航空大隊は、各務原飛行場に移駐。18年に第1次世界大戦が終わると、日本は当時優れた航空兵団を持っていたフランスから航空機に関する教育、技術開発の指導を受けた。航空機の将来性に注目した川崎造船所(現川崎重工業)は、フランスのサルムソン社からサルムソン2A―2型偵察機の製造権を取得。22年に建設された各務原分工場で試作機を組み立て各務原飛行場で初飛行、約300機を生産した。各務原分工場は拡張が繰り返され、37年には飛行機生産部門が分離し、川崎航空機工業が設立。各務原工場で機体を、神戸工場でエンジンを生産する体制が整えられた。

 一方、ゼロ戦を製造した三菱造船(現三菱重工業)は、神戸に置かれた神戸三菱造船所から航空機エンジンを生産する部門が独立し、20年に三菱内燃機名古屋工場を設立。34年には三菱重工業名古屋航空機製作所と改称された。各務原には格納庫が設置され、生産機の輸送は名古屋港から船で木曽川をさかのぼり、各務原の「小山の渡し」まで運んだ後、陸路で輸送した。渡しがあった場所付近には、各務原市文化財を守る会が立てた案内板がある。同会の大堀等会長(73)=同市蘇原申子町=は「渡しからは馬車ではなく、牛車で運んだ。精密部品のため、さぞ慎重に運んだのだろう」と想像する。

 終戦までに三菱は42機種約2万7千機、川崎は14機種約1万1千機の航空機を製造。日本の航空機の中で当時最大の大きさを誇った九二式重爆撃機や、各務原で最も多く製造された三式戦闘機(飛燕(ひえん))など、2社製のほとんどが各務原飛行場で初飛行した。同博物館学芸業務専門職の岩本吉則さん(68)は「見通しが良く風も安定しており、航空機を研究する上で好条件がそろっていた。日本の航空機の発展に大きく貢献した飛行場」と評価する。

 また、飛行場周辺には工場だけでなく、技能者を育てる養成所も設立され、そこから多くの優秀な技術者が輩出されたことも忘れてはいけないだろう。各務原が日本の航空機産業発祥の地であることは確かだ。ただこの地から飛び立った航空機の多くが戦地で散ったこともまた事実。広大な飛行場には、悲しい歴史も刻まれている。

カテゴリ: くらし・文化