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「息子の修学監督」渋沢栄一感謝の手紙 家族ぐるみで交流、岐南町の横山家へ 



  • 代々受け継いできた渋沢栄一の書を紹介する横山幹雄さん=羽島郡岐南町若宮地、横山さん宅 
  • 渋沢栄一の署名が確認できる手紙の一部。家族ぐるみの交流があったことが読み取れるという=同 
  • 今も残る横山富三郎の墓。墓誌は渋沢栄一が撰文、揮毫し、名前も刻まれている=羽島郡岐南町若宮地 
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 「日本資本主義の父」と呼ばれ、明治から昭和にかけて活躍した実業家の渋沢栄一(1840~1931年)。岐阜県内では、十六銀行や王子エフテックス中津工場(中津川市)との縁が知られるが、羽島郡岐南町若宮地の横山幹雄さん(73)の先祖とも交流があったことが分かった。家族ぐるみの付き合いがあったとみられ、栄一直筆の手紙数点や書、碑文を揮毫(きごう)した親族の墓などが横山家に残されていた。公益財団法人渋沢栄一記念財団の渋沢史料館(東京都)の協力で手紙の解読を試みると、栄一の息子が横山家を訪れた時の謝意も。幹雄さんは「渋沢栄一とつながりがあったことは母から伝え聞いていたが、手紙の内容が分かってから、より身近な存在になった」と話している。

 横山家は1700年代から続く豪農の家柄で、栄一と交流があったのは幹雄さんの曽祖父と祖父の代。特に、地元の村長を務めた祖父・助次郎の兄、徳次郎は上京して渋沢家の家庭教師になり、栄一が息子らのために開いた寄宿舎「克己学寮」でも監督者として修学を指導した。その後、東京石川島造船所(現・IHI)や浅野造船所といった栄一が関わった企業の重役などにも就いている。

 横山家に残るのは幹雄さんの曽祖父で、徳次郎たちの父・藤九郎宛てに明治後期、栄一や渋沢家から送られた手紙をはじめ、栄一がしたためた漢詩の書など。かつて栄一が仕えた徳川慶喜(江戸幕府15代将軍)の書もある。徳次郎と助次郎の弟で、日露戦争で戦死した陸軍軍人・富三郎の墓には栄一が撰文(せんぶん)、揮毫(きごう)した碑文が刻まれ、葬儀の香典帳には栄一ら渋沢家の名前も見られる。

 渋沢史料館に手紙を解読してもらうと、栄一の手紙には富三郎の墓碑のことや渋沢武之助ら栄一の息子が横山家を訪れた時の謝意が書かれていた。「私の息子らが貴地へ行き、いろいろとご厄介になったとのこと厚く感謝いたします」「徳次郎君に修学の監督をしてもらっており、私も妻(兼子)も安心しています」といった趣旨のことが書かれているという。

 同館の学芸員、永井美穂さん(49)=県出身=によると、徳次郎の名前は栄一の日記にも見られ、息子らの修学について度々、話をしていたことが確認できるという。横山家に残る栄一の手紙について、「実家の父(藤九郎)に宛てた手紙があるのは興味深い。徳次郎は修学指導を通して栄一の家族と関わりがあった。そこに弟の富三郎の戦死もあり、墓誌の撰文や揮毫で実家とのつながりが深まった。栄一の息子たちも横山家を訪れており、家族ぐるみの交流があったことが分かる」と読み解く。

 横山家に伝わる資料の中には「昭和己巳六月 澁澤榮一書時年九十」と記されたものもある。栄一が死去する2年前の1929(昭和4)年に書かれたようだが、誰に宛てたものかは不明。ただ、横山家に伝わっていることから栄一の晩年まで何らかの交流が続いていたとみられる。

 栄一が揮毫した富三郎の墓は、今も同町若宮地の共同墓地の脇にあり、栄一の名前も確認できる。墓の存在は同財団編さんの「渋沢栄一伝記資料」の記録にも見られ、富三郎の死を受けて「打払(うちはら)ふ其(その)しこ草(くさ)の露(つゆ)ちりて玉(たま)とくたけし君(きみ)そかなしき」といった和歌や漢詩も残したという。永井さんは「その死を非常に悼んだのだろう」と推測する。

 幹雄さんは「手紙や書は大切にし、代々受け継いでいきたい」と伝承の意欲を語るが、墓については課題も残る。当時の軍人の墓は大きく、集落の共同墓地を整理する際に移転できなかったといい、土地活用への影響も。「残したいが扱いが難しくなっている」と幹雄さん。伝承への悩みも尽きない。

カテゴリ: くらし・文化