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【山城を攻めろ】郡上八幡城 関ケ原の戦い前哨戦の舞台



 四季折々の風景美や雲海に浮かぶ「天空の城」として人気観光名所となっている郡上八幡城(岐阜県郡上市八幡町)。吉田川と小駄良(こだら)川の合流点近くの通称「城山」から、再建天守が今も「水の城下町」を見守る。

 永禄2(1559)年に遠藤盛数が砦(とりで)を築いたのが始まりとされ、明治初期に廃城令が出るまで存在した。その長い歴史の中で激戦の舞台にもなった。慶長5(1600)年、関ケ原の戦いの前哨戦の一つ「郡上八幡城の合戦」だ。

 当時の城主は西美濃三人衆として知られる稲葉一鉄の息子貞通(さだみち)。石田三成が挙兵すると、岐阜城の織田秀信に従って西軍方として犬山へ向かった。その隙に、かつての城主遠藤慶隆(よしたか)が城の奪還を狙う。東軍に属して徳川家康の許可を得ると、金森可重(ありしげ)とともに攻め入った。郡上八幡町史や歴史書などによると、吉田川の対岸に陣を敷いた遠藤軍は同年9月1日、川を渡って城の正面から攻撃開始。金森軍は"裏口"の「搦(からめ)手(て)」から進軍した。

 郡上八幡城の合戦で最大の攻防「搦手の戦い」の痕跡を探しに城山を歩いた。天守に向かう観光客の流れに逆らい、山頂駐車場脇から搦手側の遊歩道に入った。駐車場はもともと堀切(ほりきり)だった。搦手側にはほかに、二つの出丸と三つの堀切があった。入ってすぐ左上部の平場は出丸跡。しばらく進むと、戦いの説明看板があり、石垣や土塁とみられる痕跡も確認。すぐ下は深さ50メートルほどの堀切。これら固い防御網に、金森軍にはおびただしい数の戦死者が出たという。

 合戦のその後。稲葉本軍が郡上に取って返し、攻撃を受けた遠藤慶隆は敗走。実はすでに稲葉が家康側に寝返っていたため、「東軍対東軍」の様相を呈した。関ケ原の戦いより前に和睦が成立となった。まさかの"同士討ち"だった前哨戦の爪痕は、今も森の中にひっそりと刻まれている。

カテゴリ: くらし・文化 動画