「空襲」実は「日本軍爆弾」 各務原の戦火物語る資料写真 − 岐阜新聞 Web
「空襲」実は「日本軍爆弾」 各務原の戦火物語る資料写真
2016年11月02日09:23
写真:「空襲」実は「日本軍爆弾」 各務原の戦火物語る資料写真
各務原空襲の様子として紹介されてきた写真。写真右下が各務原飛行場(現在の航空自衛隊岐阜基地)で、写真左側を南北に貫くのは新境川

 1945年6月の各務原空襲で、B29が投下した爆弾が爆発する瞬間として長年、幅広く紹介されてきた写真が、実はB29を撃墜しようと日本軍の戦闘機が投下し、命中せず空中で爆発した爆弾の写真であることが1日までに分かった。元各務原市歴史民俗資料館嘱託職員の福手一義さん(66)=同市鵜沼大伊木町=が、写真の原画を入手するなどして判明した。福手さんは「確認が十分できなかった時代から用いられており、やむを得ない間違いだろう」と話している。

 問題の写真は45年6月のものとみられ、米軍が撮影。各務原飛行場(現在の航空自衛隊岐阜基地)の西側で、巨大な閃光(せんこう)が光っている。

写真:「空襲」実は「日本軍爆弾」 各務原の戦火物語る資料写真
「各務原空襲の空爆」として紹介されてきた写真を手にする福手一義さん=31日午後、各務原市鵜沼大伊木町

 福手さんらによると、空襲の激しさを物語る資料として、市も資料提供した書籍「思い出のアルバム 各務原」(1983年発行)など少なくとも5〜10冊の書籍で用いられてきた。また、同書からの引用とみられる方法で、展示や講演会などでもたびたび使われてきた。

 福手さんは、国内の他地域の空襲写真と比べ、花火のように爆発する閃光を不自然と感じ、約1年前に調査を開始。空襲直後に米軍が撮影した写真では、現場に爆発跡が確認できないことなどを突き止めた。

 全日本軍装研究会(岐阜市)の辻田文雄代表(69)=同市長良雄総=が、三重県四日市市の考古学者から写真の原画を入手。写真の裏書きを確認すると、英語で「日本軍のリン爆弾はB29を停止させることに失敗し、B29の下(の空中)で爆発した」などと書かれていた。

 辻田代表によると、リン爆弾は、爆発すると多量の子爆弾を下方に射出する爆弾。日本軍機はB29より上空でリン爆弾を投下し撃墜を試みたが、狙いが外れてB29の下で爆発したため、写真のように放射状の閃光を残したとみられる。写真は米軍が複製し、軍内部でリン爆弾への警戒を呼び掛ける際に使ったとみられるという。

 写真が「空襲」として最初に用いられた時期や、引用され続けた詳しい経緯は分からなかったが、福手さんは「写真そのものに派手さがあるため、裏付けが取られないまま独り歩きしたのだろう。空襲が悲惨だったことには変わりはない」と話している。

 各務原空襲は45年4月から8月にかけ十数回あり、各務原飛行場や軍需工場が被害を受けた。特に6月22、26日の空襲が激しく、少なくとも計約230人が犠牲になったとされている。

 【リン爆弾】 第2次大戦時に日本軍が開発、使用したクラスター(集束)爆弾で「三号爆弾」と呼ばれる。上空から投下すると、親爆弾が爆発した後に子爆弾が円すい状に広がる。飛行場破壊用として開発されたが、敵機への対抗にも転用された。命中精度は低く、戦果を挙げることは少なかったとされている。