オグリの里
日本ダービー創設、安田伊左衛門さんの足跡

2019年05月17日 14:47

海津市では、安田伊左衛門さんの功績をたたえて学ぶ講座も開かれた(同市のポスター)

 今年もオークスや日本ダービーの季節を迎えたが、競馬ファンが気軽に馬券を買えるようになるまでには、苦難の歴史があった。日本ダービーを創設しJRA初代理事長を務めたのが「日本競馬の父」安田伊左衛門さんで、現在の岐阜県海津市の出身。1908年、日本の競馬界に発令された「馬券禁止令」は15年間も続いたが、競馬場での馬券販売を復活させたのが伊左衛門さんだった。 

 オグリキャップによく似た芦毛のスイテンらの競走馬を愛し、日本競馬の近代化に尽力。その熱い思いは、中央競馬をはじめ、地元・笠松など地方競馬にも脈々と受け継がれている。功績をたたえた今年の「安田記念」には昨年の年度代表馬アーモンドアイが出走予定で、例年以上の注目度だ。岐阜新聞に掲載された「ぎふ快人伝」(2012年8月19日付)で、郷土の偉人・安田伊左衛門さんの足跡を振り返った。


日本競馬の近代化に尽力し、公正さを第一とした「日本競馬の父」安田伊左衛門さん(海津市歴史民俗資料館提供)

 ◆日本競馬近代化けん引
 
 初夏を彩る国際GIレース「安田記念」の開始を告げるファンファーレとともに、「安田伊左衛門」の名前と肖像画が東京競馬場(東京都)内をはじめ全国のレース中継画面に映し出される。馬券販売の競馬法制定や日本ダービー創設に心血を注ぎ、日本中央競馬会(JRA)初代理事長に就任。「日本競馬の父」と呼ばれ、約半世紀にわたり、日本競馬近代化の先頭に立って走り続けた。
 
 伊左衛門は1872(明治5)年、海津郡東江村(現海津市海津町)大和田の豪農・安田家の長男として生まれた。家にいた3頭の馬の前では泣きやんだという馬好き。9歳で乗馬を始め人馬一体に憧れた。少年時代は祭り競馬で落馬して腕に大けがをしても、けろりと立ち上がって周囲の大人を驚かせたという。帝国大学農科大学卒業後は騎兵隊員として日清戦争に参加。日本の軍馬は体格も能力も低く、「日本馬を改良して強くするべき」と痛感した。
 
 明治、大正、昭和の激動期に「清廉潔白、公正さ、反骨心」を貫き、競馬界の興隆のほか、農民救済にも尽力した。
 
 兵役を終えた伊左衛門は、海津に帰郷すると郡会議員となった。当時は、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの指揮による木曽三川分流の大工事が行われていたが、川を拡幅するための土地の強制収用は、農民を苦しめる一面もあった。伊左衛門は私費を投じて土地収用法の適用不当を訴え、粘り強く提訴すること12回。政府は伊左衛門の主張を認め、示談とすることで勝訴が確定した。
 
 安田家18代当主で伊左衛門の生家を守っている安田伸三(61)は「勝訴の補償費で大和田村に土を盛って土地を高くし、水害のない村にした。競馬界への功績のほか、郷土を愛し、土地改良での貢献も大きかった。活力に満ちた『聖人』であり、家名を守ることを誇りに感じる」と思いを語る。
 

旧海津郡東江村の生家で、家族に見守られて乗馬を楽しむ伊左衛門さん(安田伸三さん提供)

 伊左衛門は27歳で結婚。妻となる定子には結納返しに馬を希望したというが、家宝の太刀一振りの寄贈を受けて挙式した。1904年の日露戦争で騎兵隊に復帰。日本馬の改良促進で厩舎長を任され「競馬興隆こそが馬の改良の早道」と競馬事業の法制化、東京競馬会の発足に尽力。東京・池上村に馬券を販売する競馬場が完成し、第1回競馬会は大盛況となった。
 

伊左衛門さんが愛した芦毛のスイテン号。帝室御賞典(現天皇賞)優勝など30勝を挙げた名馬(安田伸三さん提供)

 当時、伊左衛門が最も愛して持ち馬としたのはスイテン(水天)号。芦毛で見栄えは良くなく、当初は「実物を見ずに購入したから、ミズテン(不見転)号だ」と周囲は冷笑。活躍とともに馬名はスイテンと改められ、帝室御賞典(現天皇賞)に優勝するなど53戦30勝、4着以下なしの好成績で日本一の名馬となった。
 
 愛馬スイテン号の引退後は岐阜で余生を過ごさせたかったが、馬産地ではないため、盛岡に種馬として寄贈。その後、「馬車馬にされた」という悲しいうわさを耳にして、必死に捜したが行方知れずに終わったという。
 
 08年、政府が賭博性などの問題から馬券禁止令を発令すると、23年まで長い闘いを強いられた。伊左衛門は「私には馬しかない。馬券を復活して競馬が隆盛を極めるまで諦めない」と決意。東京競馬倶楽部理事に就任すると「自ら代議士となって議会を説得しなければ」と郷里で衆院議員に立候補し初当選。問題解決のため馬政委員会を設置し、ようやく競馬法が議会を通過、禁止されていた馬券販売が再開された。「競馬というものは、競走の施行面でも馬券販売でも『公正の保持』が最も大切」と信念を文書にした。
 

1990年、オグリキャップは武豊騎手とのコンビで安田記念を制覇した後、ラストランとなった有馬記念でも勝利を飾った(競馬ブック提供)

 伊左衛門は海外にも広く目を向け、豪州競馬を視察した。馬券禁止令の発令中には日本馬をウラジオストクに遠征させ、スイテン号は日露競馬大会などに5戦5勝。昭和に入ると、イギリスのダービーを模範とした東京優駿大競走(現日本ダービー)を創設し、入場者や馬券販売は増加した。国内に11あった競馬倶楽部を統合し、日本競馬会を設立して理事長を10年間務めた。
 馬政功労者として貴族院議員に勅選され、第1回安田賞を開催。54年には日本中央競馬会初代理事長に就任した。
 
 伊左衛門が85歳で逝去したのは、オークスの開催日だった。安田賞は、多大な功績がたたえられ安田記念となった。90年には、スイテン号と同じ芦毛馬で笠松競馬育ちのオグリキャップ号(武豊騎手)が圧倒的な強さで安田記念を制し、歴代優勝馬の一頭となった。
 
 「郷里の伊左衛門の墓地には、実家で死んだ馬の骨も一緒に埋葬されていた」と伸三。競馬とともに生き、スイテン号ら大好きだった馬たちへの深い愛情と感謝の気持ちを忘れず、伊左衛門は安らかに眠っている。(敬称略)

伊左衛門さんら安田家の写真に目を通しながら、「清廉潔白な人だった」と語る安田伸三さん=海津市海津町

 ◆清廉潔白、馬を愛し代議士に
 
 JRAのイメージキャラクターをSMAPの木村拓哉さんらが務め、馬券販売絶頂期だった1990年代。「当時、競馬のことはよく知らず、じいさんの偉業にびっくりした」と語る安田家18代当主で一級建築士の安田伸三さん。
 
 十数年前、JRAからの招待を受け、一族15人ほどで東京競馬場(東京都)の貴賓室から安田記念のレースを初観戦。JR東京駅到着後からのVIP待遇に、JRA初代理事長だった伊左衛門の偉大さを再認識した。
 
 「騎兵隊の軍人としては馬を強くし、国力を強くしようとした。愛した馬のために代議士になった人で、すごいエネルギー。汚職や非人道的なことを嫌い、清廉潔白だった」と、尊敬し誇りに感じる存在という。
 
 岐阜は競馬との関わりが深く「同じ郷土人として、笠松競馬存続への熱い思いもある。いつも馬の将来を憂えていたじいさんのためにもアイデアを出して永続してほしい」と願う。
 
 今では「ひっそりと暮らせ」という言い伝え通り、安田家と墓を守る静かな日々。「競馬も精神性が大切。人馬一緒に楽しく続けていけるといい」と、馬を愛する安田家の真っすぐな気持ちを伝える。

【参考文献】
▽「競馬と共に歩んだ安田伊左衛門翁伝」(日本競馬会、1948年)
▽「西美濃わが街」1999年4月号(月刊西美濃わが街)
▽「海津市歴史民俗資料館報」第2号(同資料館、2002年)

「岐阜県郷土偉人かるた」(岐阜新聞社制作)にも登場する安田伊左衛門さん


 禁止令が出されていた馬券復活のため、自ら代議士になって競馬法の成立に尽力。海外遠征などで国際化にも目を向けて、日本ダービーを創設。「強い日本馬をつくりたい」という、安田伊左衛門さんの「競馬愛」があったからこそ、現在の日本競馬界の繁栄があるといえよう。6月2日に行われる安田記念には、3冠牝馬で現役日本最強馬のアーモンドアイ(国枝栄厩舎)が参戦する。ダノンプレミアム(中内田充正厩舎)らとの対決で、日本ダービー並みの盛り上がりを見せてくれそうだ。