第六十六回 「落語家」って何?(2)

2018年10月04日 13:36

 前回、「落語家」という呼称についての意見を述べました。

 結論からいえば「落語家」という呼び方はプロだけのものではないと思います。落語を演じるすべての人は「落語家」でいいと思っています。

 私も恥ずかしながら、敬老会やいろいろな催しにお呼ばれして落語を披露する事があります。ですが、高座に上がった時にお客さまの前で身分を話す時には必ず「私はアマチュアの落語家です」と注釈をつけています。それは、プロとアマチュアの区別などつくはずもないお客さまにあらかじめ予備知識を刷りこんだ上で楽しんでいただくこと、これがプロに対する敬意だと私が考えているからです。

 じゃあ、プロとアマチュアの違いって何なのか。これをきちんと言える人は少ないと思いますが、私は15年の落語・演芸オフィスの経験上、二つの答えを持っています。

 一つ目は、時間を守れる人がプロ、そうじゃない方はアマチュア。

 二つ目は、「覚悟」がある人がプロ、そうじゃない人がアマチュア。

 プロは、落語家が入れ替わり立ち替わり高座に上がる「寄席」を経験しています。寄席では、昼の部・夜の部合わせて一日に約30人~35人の落語家、演芸の方が出演されています。そして円滑な進行をするために、立前座と呼ばれる若者が今から高座に上がる師匠たちに「今日は何分でお願いします」「後の人がまだ来ていないので長めにお願いします」などの時間調整をお願いするのですが、ほとんどの師匠は「あ、15分ね」「え、8分しかないの、わかった」と言って高座に上がり、ぴったりとその時間に降りてきます。つまりプロの落語家さんには「体内時計」が埋蔵されているのです。落語家同士、協調して寄席を盛り上げてゆく、その技術がない人を「プロ」とは呼びません。

 「だけどアマチュアや学生だって6分とか8分とか、大会で決められた時間をきちんと守っているよ」。そう言われるかもしれません。違うのです。いきなり、その場で、どんな注文を出されてもそれをクリアできるのがプロなのです。前にも書きましたが寄席は、あとに行けば行くほど同じ系統の話ができなくなる。まだ出ていない種類の噺(はなし)を自由自在に延ばしたり縮めたりする。それができてこそプロ。6分とか8分とか、前から何分と決まっていれば稽古で時間を計っていればできることであり驚くにはあたりません。

 二つ目にあげたのは、「覚悟」。落語一本で、生活していくことを決めたらもう、他に目を移しているひまはない。ただひたすら芸の向上にいそしむ。そしてお客さまを増やす。会場探しも設営も、すべて自分の責任で行う。他に仕事を持っていて趣味でやっている方たちは、その覚悟がないと思いますし、覚悟なんて必要ないと思う。上下関係の厳しい世界で修業をして、やっと自分で仕事を見つける自由を許されて、そして自分だけの力ではい上がっていく、芸の深みはそこで育っていくのではないかと思っているのです。

 今、社会人落語も活発な活動をしています。彼らはとにかく、食いっぱぐれを心配する必要はありません。コンピューター関係の技師やお医者さん、歯医者さん、学校の先生、板前さん、消防士さん、いろんな職業の方々がいますが、みなさんとてもお上手です。でもそれはあくまで趣味です。余暇です。そこに切羽詰まった生活のにおいはそんなにしません。そもそも落語の修業自体を経験していないから当然なのですが、彼らは自分が前座に出てプロの方をトリにする落語会を主催したり、自分の人脈で各地で行うイベントに落語を薦めてくださったりしてプロの方の仕事にも寄与しています。それも学生と同じで一種の落語界の発展を後押しする下支えと考えれば、「社会人落語家」という呼称も許していただけるのではないかと私は思うのであります。

 ここまで書いてきましたが、次回はアマチュアとプロの決定的な違い、また、プロの方が最も気にする部分である「対価」。お金をもらって落語を聞かせることの問題点、次回はこの部分を掘り下げていきたいと思います。

 <つづく>