レンズ越しの彼

2020年09月03日 12:08

 「僕の写真のテーマの『Being』というのは収集という意味なんです。木の根っこだったり、水面だったり、錆びた壁だったり。撮ってようやく自分のものにするんです」。この連載で写真を担当している三品鐘は、私とのはじめての仕事となった第4歌集「眠れる海」の打ち合わせでそう言った。「だから、僕はこの仕事で野口さんを収集したい」。

 この写真家、いかれていると思った。そして同時にひどく好感を持ったのを覚えている。

 書いて、撮って、私たちは見えている世界をようやく自分のものにすることができる。書くことは手に入れること。キーボードに向かうとき、ふと、自分が体験したことのないできごとが、自然と書けていることがある。キーボードだけを使った、私だけの、私のための交信。なにものにもなれる。なんだって受け止められる。なんだって自分のものにできる。

 「あなた、自分に娼婦性があると思っているでしょう」。ある男性作家からそんな風にいわれたことがある。「なにものにもでもなれる」、そんな媒介の感覚を抱く作家に、娼婦性を感じたがるのは男性の性(さが)なのかもしれない。

(撮影・三品鐘)

 「ううん、どちらかというと私、ハンス・ベルメールの人形みたいなものに憧れるんです」。

 ベルメールの球体関節人形は、胴体から足が4本出ていたり、性器が2つついていたりと、人間ではない形を持った人形だ。人間を真似(ね)しながら人間ではありえない形をとるそれらの人形に、拒絶と同時に深く受容しているような、屈辱を受けると同時に気高さを抱くような、矛盾した感情を抱く。どんな目にあっても、だれにも汚されることのないもの。どんなありえない姿になっても、私が私でいられるということ。面の皮一枚の内側ではそんなものを求める私を、三品鐘はまた「収集したい」と思うだろうか。

 私は私を、君は君が望む世界を、手に入れたい。創作はいつもわがままで自分勝手だ。三品鐘のカメラが、また私に向けられる。また収集されるんだろう、と安堵(あんど)すると同時に、牙を剥(む)いてフィルムを駄目にしたい衝動に駆られながら、レンズ越しの彼を見つめるのだ。


 岐阜市出身の歌人野口あや子さんによる、エッセー「身にあまるものたちへ」の連載。短歌の領域にとどまらず、音楽と融合した朗読ライブ、身体表現を試みた写真歌集の出版など多角的な活動に取り組む野口さんが、独自の感性で身辺をとらえて言葉を紡ぐ。写真家三品鐘さんの写真で、その作品世界を広げる。

 のぐち・あやこ 1987年、岐阜市生まれ。「幻桃」「未来」短歌会会員。2006年、「カシスドロップ」で第49回短歌研究新人賞。08年、岐阜市芸術文化奨励賞。10年、第1歌集「くびすじの欠片」で第54回現代歌人協会賞。作歌のほか、音楽などの他ジャンルと朗読活動もする。名古屋市在住。

写真家・三品鐘さんのホームページはこちら

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