陽炎
身にあまるものたちへ 歌人 野口あや子

2020年05月07日 12:05

 好きな人に、人は好きなものを見る。あなたにふれたくて、ふれたくてたまらないけれど、あなたが語るそれはわたしではない、あなたが好きななにかの陽炎(かげろう)だ、ということだけをいつか言うために、一日に何度もあなたの髪を眺める。癖っ毛が伸びてくるくるになった髪は、窓際の日差しからの光で照り陰りして見飽きることがない。もしあなたの髪がすべてかつらでも、わたしは一生あなたの癖っ毛を愛してしまうだろう。好きになるということはそういうことだ。

 好きだという感情は陽炎に似ている。つかまえたと思ったらもう消えていて、追いかけることに意味がある。好きなひとの好きなところを語るたび、その好きなところはますます堅固にわたしのものになっていて、もう好きなひと、そのひとの手の及ぶところではなくなっている。

(撮影・三品鐘)

(撮影・三品鐘)

 食べる、水を飲む、排泄(はいせつ)をする、眠る。生き物の美しさをしきりにあなたはいう。だけれど、人間だけがもつ美しさは、錯覚ができる美しさではないかと思うのだけれど、どうだろうか。その花が、あなたに花束にして贈るために咲いてくれたと思うこと。その花を摘むこと。わたしのための花と思って受け取ること。贈り物としてわざと枯らすこと。錯覚ほど贅沢(ぜいたく)で身勝手な感情はない。その世界では、すべての星はあなたのために光っている。

 窓辺からあなたのための光が差し込んで、あなたの癖っ毛を照らしている。わたしのための癖っ毛だと思って眺める。時折、あなたは煙草(たばこ)を差し出して、ちょっと面倒くさそうに吸う。その感じに、その瞬間が、わたしのためだけにあるものだと、ふいにわたしも錯覚するのだ。


 岐阜市出身の歌人野口あや子さんによる、エッセー「身にあまるものたちへ」の連載。短歌の領域にとどまらず、音楽と融合した朗読ライブ、身体表現を試みた写真歌集の出版など多角的な活動に取り組む野口さんが、独自の感性で身辺をとらえて言葉を紡ぐ。写真家三品鐘さんの写真で、その作品世界を広げる。

 のぐち・あやこ 1987年、岐阜市生まれ。「幻桃」「未来」短歌会会員。2006年、「カシスドロップ」で第49回短歌研究新人賞。08年、岐阜市芸術文化奨励賞。10年、第1歌集「くびすじの欠片」で第54回現代歌人協会賞。作歌のほか、音楽などの他ジャンルと朗読活動もする。名古屋市在住。

写真家・三品鐘さんのホームページはこちら


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