ぎふ財界人列伝 ぎふプラスチック工業編 この道を行く

未知の新素材に懸ける

2019年08月23日 12:30

  • 1953年の創業に際し、近くの神社に祈とうに行った創業者の大松幸栄と妻節子
  • 創業の頃に久保見工場の成形機第1号機でプラスチック製品を製造する社員

(1)プロローグ

 プラスチック製品が日本でまだ身近な存在でなかった国内業界の黎明(れいめい)期。社会は戦後の復興期で空襲の爪痕がまだ残る岐阜の地で、1953年4月16日に岐阜プラスチック工業は産声を上げた。創業者の大松幸栄は28歳の若さで、未知の素材を研究し、試行錯誤で製品づくりの挑戦を始めた。

 幸栄は愛媛県の山あいで養蚕が盛んな伊予糸の産地、伊予郡中山町で25年に生まれた。7人きょうだいの長男は、京都繊維専門学校(現京都工芸繊維大学)繊維化学科へ進み、卒業後の就職先は学校の先輩が社長をしていた岐阜整染(現岐セン)。ここまでは繊維の道を歩んでいた。

 会社員時代にプラスチックの道への転機が訪れた。きっかけは米国から輸入された機械の中からプラスチック製の容器やギアを見つけたことだった。ナイロンやビニールの近縁筋と見抜いた幸栄は、鉄や陶磁器に比べ軽くて強い新素材に大きな可能性を感じた。

 このころ幸栄は、政治の世界に進むか新しい事業を興して日本の礎をつくるか二つの道の間で揺れていた。52年夏のことだった。幸栄は妻節子に「政治をやるか、事業をやるか。現状から踏み切りたい」と言い出した。節子は「なるべくなら政界へ入ることはやめてほしい。それ以外のことならどんなことをしても協力します」と答え、幸栄は政治家への道を断念した。

 これで実業家への方向を定めた幸栄は、「誰にでもできるようなものには手を付けない」と、未知のプラスチックの将来性を見極めるため国会図書館で関連の文献や資料を探し回った。「モダンプラスチック」と題された書籍などを読み込んだ幸栄は、米国発祥のプラスチックが飛躍的に伸びる分野という直感が確信に変わるのを感じ取った。先見性の根拠となって、未開拓のプラスチックの可能性に自身の一生を懸けることを決断した。

 53年3月会社を退職して桜の花がほころぶころ、翌4月に岐阜プラスチック工業を設立。資本金50万円は、退職金と親からの援助を受けて工面した。社員は母校で教授に紹介され、片腕となって活躍する後輩と節子の3人での船出。工場は岐阜市久保見町。戦災で応急的に建てられた木造2階建ての小学校校舎を払い下げを受けて事務所兼用で充てた。しかし発注したプラスチック成形機は納品が遅れ、その間節子の家業を手伝った。

 2カ月たって試行錯誤が始まった。試作第1号はアイスキャンディーの冷凍容器。アイスクリームが登場して既に市場性が乏しかった。次は当時木製だったボビン(糸巻き)のプラスチック化に挑戦。不破郡垂井町の紡績工場へ通って製品化に努めたが、割れて思うような成果がなく、とぼとぼと岐阜に戻る日が続いた。

 そこで大阪へ行き、デパートなどを巡って商品になりそうな物を探すことにした。「見つからなかったら工場閉鎖の剣が峰に立っての道行き」。こんな覚悟でたどり着いた問屋の関西プラスチック商会。セルロイド製のコンパクト入れの受注に成功した。

 会社を興して5カ月がたっていた。やっと製造が始まった。涙が出た。節子もバリ取り作業に精を出し500個も入る木箱で製品を納めた。12月末、手形で初の売り上げ19万円を集金した。当時サラリーマンの平均月給は1万5千円だった。

(敬称略)

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 ぎふ財界人列伝の第10弾は岐阜プラスチック工業。プラスチックの無限の可能性に懸けて製品開発に奮闘した創業者から、環境対応に知恵を絞る現在まで3代社長の経営に迫ります。

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