ぎふ財界人列伝 ぎふプラスチック工業編 この道を行く
取引先の倒産乗り越え

  • 移転先の三里工場の前に集まった住み込みで働く社員と寮で面倒をみた大松節子(前列中央)ら
  • 現在も岐阜プラスチック工業本社で保存している創業の頃の製品
  • 大松幸栄が1年に一つずつ5年かけて制定した社是五訓

(2)草創期

 創業時は成形機1台のみでプラスチック製品を製造した。製品の評判もよく次にクリーム入れも大量に受注し、創業1周年の1954年4月には従業員をさらに3人雇った。関西プラスチック商会からは洗濯ばさみや洋服ブラシなどを、自転車部品メーカーからはテールランプを相次いで受注し、機械はフル稼働、大松幸栄は寝食を忘れて働いた。

 創業の年、幸栄は苦い経験をした。当時、成形機は米国や欧州からの輸入品に頼っていたが高価で手が出ず、国産のそれも試作機を使った。故障や不具合が多く、8時間稼働すると機械や金型の修理に倍の16時間かかることもあり、幾度も徹夜をした。

 2年目に念願の成形機を2台購入。受注が増えるにつれ、従業員も増え、製品の仕上げ場と置き場が場所を取り、久保見工場も手狭になった。

 続く3年目に、幸栄は義姉の嫁ぎ先の岐阜市内の土地を借りて、三里工場と従業員寮も建てた。事業が軌道に乗り始めた。世間では電化の三種の神器がもてはやされ、消費ブームが幕を開けていた。従業員の労苦に報いるため、町工場には無縁だったボーナスを出し、慰安旅行にも行くと告げた。

 好事魔多し。岐阜プラスチック工業に大きな危機が迫っていた。従業員にこの公約を告げた翌9月、幸栄は「関西プラスチック商会はいよいよ危ない」との情報を耳にした。金融機関からは「取引先は1社だけではリスクが大きく、分散を」と助言されていた。しかし幸栄は「自身が苦しい時、最初に製品を買い上げてくれ、どん底から拾い上げてくれた」と恩義を感じていた。

 12月、関西プラは不渡りを出して倒産。岐阜プラは売掛金など700万円で2番目の大口債権者だった。売り上げの98%を関西プラが占め、連鎖倒産の危険さえ漂った。幸栄は大阪での債権者集会に駆け付け、恩義から債権を放棄して岐阜へ戻った。自力で資金繰りにめどを付けた。この経験を幸栄は「本当に自信を持って事に当たれば相手も信用してくれる。説得だけでは駄目で誠意を持って話せば道は開ける」と振り返り、「人生の生き方の核心をつかんだ思いがした」

 この教訓から取引先を1社に集中せず、分散を図った。倒産した関西プラの社員3人を引き受けた。大阪、東京に営業拠点を開き、大阪では十数件の取引先を確保した。プラスチックに詳しく、人脈のある元関西プラの営業経験豊富な社員が貢献した。今度は岐阜プラの得意先としてつなぎ、新たに九州、北海道など地方へも販路を拡大し、業績を伸ばした。その年の暮れには慰安旅行の夜に約束のボーナスを支給した。

 創業から苦節5年が過ぎ、幸栄は社員の社会的地位を向上させ、社員の自覚を高揚させるため、経営理念の確立を考えた。自身の理念を社員に周知して社員が納得する経営を行うことを決意し、5年かけて「社是五訓」を制定した。

 最初の59年は「健康」。社員の幸福の第一は健康で働くこととした。2年目は会社の飛躍を目指すには社員全員が信頼関係を密にしなければならないと「信頼」にした。3年目は信頼関係を強固にするため「団結」に決めた。4年目は新製品を開発し市場拡大で業績を伸ばす考えで「開拓」。最後の年は各務原市の稲羽工場の生産設備計画が完成して業容拡大の基盤が整い、企業の地位を高めるため、製品づくりを通して社会に「奉仕」する姿勢を打ち出した。

 社是五訓は今も創業精神として社内に掲示し、朝礼などで唱和している。(敬称略)


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