ぎふ財界人列伝 ぎふプラスチック工業編 この道を行く
分社化、グループで確立

  • 記者会見で自らは会長となり、第2代社長に長男の大松利幸(右)の就任を発表する幸栄=1988年
  • 会長就任の直前に急逝した創業社長の大松幸栄の社葬=1988年
  • 自社ブランドとして浸透を図ったリスマークの商標

(3)自社ブランド

 創業時から岐阜プラスチック工業の製品には、市場に出ると関西プラスチック商会のマーク・クジラが付いていた。しかし関西プラが倒産すると、岐阜プラの製品にはクジラに代わって自社ブランド・リスのマークを付けた。大松幸栄は「得た教訓も蓄積することが大切。リスは冬の食物を夏にせっせと働いて蓄える習性がある」と、何十種もの動物の案から決めた。

 営業マンが問屋や小売店に顔を出すと「リスさんのプラスチック」と呼ばれ、リスブランドは定着していった。そこで幸栄はさらなる発展を目指し、会社を分社化する手に打って出た。岐阜プラを中核にグループでリスブランドを市場で浸透させる戦略だった。

 分社化第1号は「リス興業」。売り上げは大きいが、採算ラインすれすれだった塩ビ管継ぎ手の営業部門を岐阜プラから1971年に独立させた。建材のほか他社に生産を委託していた製品も扱った。売上高も設立後、最初の決算で10億円だったが、15周年の87年に45億円と着実に伸びた。

 食品包装容器の「リスパック」は2社目の分社化。氷菓用カップなどヒット商品を出したが価格競争と需要が天候に左右される厳しい経営環境だった。75年に分社化し、愛知県の犬山工場に本社を置き、食品包装容器専用の工場棟も増設し、大手食品メーカーに納品するプリンやゼリー容器の大量受注を容易にした。発砲ビーズの成形加工工場を増設しラーメン、冷菓業界などへ拡販した。

 市場が飽和状態で過当競争に勝ち抜くため、85年に分社化したのは日用品部門の「リス」。営業・企画デザイン70人、製造70人、管理10人が岐阜プラから出向して市場制覇を目指した。

 分社化はそれぞれの専門分野でトップとなることが目的で、現在の岐阜プラスチック工業グループの原型となった。幸栄は「採算の厳しい部門こそ分社化すべき」との経営判断で「分社化で問題点を明らかにし解決することで社員の経営感覚が養われる」と説いた。

 社長を35年務めた幸栄。社員1200人、売上高412億円の企業集団に育て上げた。プラスチック加工の道を社員と進む強い意志を伝えてきた。68年の創立15周年記念式典あいさつで「神よ我(われ)に七難八苦を与え給(たま)え。押しつぶされればされるほど、私は発奮して勇気と努力をもってそれを見事に克服してみせる」と、引っ張った。会社の信念を歌い込んだ74年完成の社歌「この道を行く」では「一筋に決めた道 足跡を残す道」との歌詞が揺るぎなく道を進むことを示した。

 そして社長交代の決断。88年4月、創立35周年記念式典に先立つ記者会見で自身は代表権を持つ会長となり、後継社長に一人息子で42歳だった副社長の利幸が就任することを発表した。普段の年より1カ月早い5月17日の株主総会と取締役会で正式に社長交代するシナリオを描いた。その裏側には幸栄が創業前に実業家の道を選んだことで断念した政治家への道があった。長く封印していたが、参院選へ出馬する意思を固め、政界の重鎮宅へ通って協議を重ね決意した。

 しかし健康状態を確認する検査入院で、急性心不全のため不帰の人となった。享年63歳。第二の人生を踏み出そうとした矢先、無念の死だった。実業家として昭和に人生を駆け抜け、全日本プラスチック成形工業連合会長、県プラスチック工業組合理事長など業界と、中部経済同友会代表幹事、岐阜商工会議所副会頭など経済団体の多くの要職を務めて財界人としても活躍し、その密葬に2千人、社葬に4千人もの弔問客が駆け付け、早すぎる死を悼んだ。(敬称略)


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