白菊の記憶 飛騨川バス転落事故から50年
濁流の中「もうだめだ」 少年、崖はい上がり九死に一生

2018年08月21日 11:55

  • 成田良正さんが乗っていた観光バス。飛騨川の中で、無残な姿で見つかった=1968年8月20日、加茂郡白川町
  • 事故当日、病院で治療を受ける成田良正さん。濁流からはい上がるとき、つかんだ木の枝で顔と手を切った=1968年8月18日、加茂郡白川町

 「どうしてこんなに青いんだろう」。病院のベッドから眺める鮮やかな空に悔しさがこみ上げてきた。滝のような雨、バスを押し流した土砂、狂ったような濁流...。見たばかりの地獄が、うそのようだった。

 50年前のあの夜、天井を打つ雨音のせいか、家族4人がばらばらに座ったせいか、飛騨川沿いの国道41号に停車したバスの中で、14歳の成田良正さんはなかなか寝付けずにいた。「突然、ドーンという衝撃が襲ってきた」。ずずずっと横滑りしたバスは、すでに道路際まで水位が上がっていた飛騨川に転落。悲鳴の上がる車内は、あっという間に天井近くまで水に漬かった。

 わずかに残った空気を吸い、濁った水に体を沈めた。割れた窓から車外へ出たが、真っ暗で前も後ろも分からない。「もう、だめだろうな」。体は全く動かなかった。

 激しい流れに何度も水を飲んだ。体が浮かび上がった時、伸ばした手が偶然、木の枝に触れた。夢中ですがりつくと、稲光が木の向こうにあるガードレールを照らした。「道路はすぐそこだ」。必死で体を動かし、崖をはい上がった。

 転落現場に戻ったが、危険があるため近くの小屋に逃れた。誰かがおこしてくれたたき火で暖をとった。「とにかく寒くて」。木の枝で切った手や顔がずきずきと痛む。見るともなく、荒れ狂う飛騨川に目をやり、ようやく恐怖におびえた。「きっとどこかで生きている」。両親と姉の無事を信じ続けた。

 夜明けを待って病院で手や顔の治療を受けた。父と姉の遺体が見つかったのは数日後。「その頃にはやっぱりかという思いだった」。優しかった母は伊勢湾近くまで流され、発見に1カ月近くかかった。損傷が激しく、3人には最後の対面も許されなかった。

 退院すると「奇跡の少年」としてメディアが殺到。学校では同級生から「親が死んで有名になった」と心ない言葉を受けた。それでも、祖母や伯父の支えで地元の高校、東京の大学へと進んだ。

 卒業して就職、すぐ結婚した。「意識したことはないけど、心の奥では家族を早く持ちたかったのかも」。2人の子を授かり、長女には大好きだった姉の名から一文字をもらった。今では孫が3人いる。

 事故直後は「なぜ」という思いにさいなまれた。「防げなかったのか」「もっと早く(バスが)引き返していれば」。だが、家族は戻らない。いつしか考えるようになった。「こんな時、おやじならどうするだろう。おふくろは何て言うかな...」。胸の内の両親に問い掛けながら、自分の将来を見つめるようになった。

 今も毎日朝と晩、仏壇に手を合わせる。目を閉じれば、とうに年齢を追い越した両親や姉が、50年前の姿のままでほほ笑んでいる。

 飛騨川バス転落事故から半世紀がたった。毎年、遺族らが事故現場近くの慰霊塔「天心白菊の塔」に花を手向けるが、当時を知る人は減っている。その後の道路・防災行政に多大な影響を与えた大惨事の教訓は、現代にどう生かされているのか。事故の記憶と記録をたどる。

<8月10日朝刊掲載>

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