(6)引き揚げ時、「船渡す代わり」中国兵が要求

  • 引き揚げ時、亡くなった友人を埋葬する際に使われた帯。栄子はのり付けして大切に保管している

◆少女差し出し川を渡る

 旧満州(中国東北部)吉林省陶頼昭(とうらいしょう)の南方を流れる大河松花江(しょうかこう)。ほとりに居並ぶ日本人集団から、中国人兵士たちが若い女性だけを選び分けていく。日本人の男性は誰も止めない。年上の女性たちは「主人がいるから」と抵抗し逃れた。

 1946年8月。当時19歳だった堀部栄子=仮名=は手を引かれた中国兵におとなしく従った。「私がこの子たちを守る」。小学校高学年から中学生の少女たちと連行された。

 黒川開拓団が入植していた陶頼昭では46年春にソ連軍が撤退。男は駅で働き、女は現地住民の家庭に働きに出て、物資を手に入れた。

 中国共産党の八路軍と蒋介石率いる国民党軍の戦闘が始まっていたが、開拓団は徒歩での避難を決意。5月に出発した先遣隊が戻らないまま8月13日、本隊が陶頼昭を後にした。松花江に架かる鉄橋は内戦の激化で落とされていた。雨の中を歩き通し沼を越え、2晩野宿し川岸に着くと中国兵に、船を渡す代わりに女性を差し出すよう迫られた。

 少女たちは兵舎のような建物に連れ込まれた。栄子だけが建物の外の犬小屋に誘導され乱暴はされなかった。泣き声が響く。「栄ちゃん、栄ちゃん」と名前を何度も呼んでいた。

 翌朝、兵士数人が少女たちにマクワウリを持って行こうとしていた。「皆おなかをすかせている。たくさんちょうだい」。日本語で頼み込むと麻袋いっぱいにウリが詰められた。薄暗いうちに、開拓団の元へ戻された。

 「当時の娘たちが傷つくから黙っていた」。現在91歳の栄子はためらいがちに語った。

 松花江を渡った後、開拓団は線路沿いを歩き続け主要都市徳恵を目指した。行き倒れた者はその場で埋葬された。

 線路脇で休憩していたときのこと。同級生が亡くなったと知らせが入った。団幹部の指示でソ連軍将校の性の相手をさせられて病に倒れ、担架で運ばれていた。「ごめんなさい」。息を引き取った友人の顔を見て泣いた。

 遺体を運び埋葬するために、栄子の母親は荷物を担ぐのに使っていた帯にたすきを結わえて友人の遺族に渡した。戦死した栄子の兄のために母が養蚕で出たくず繭から織った絹の帯。「そっと草むらに葬ったよ」。手伝った父親は教えてくれた。帯はその後何度も遺体の搬送に使われた。

 栄子はいまも帯を大切に保管している。「この帯は私たちの苦労を知っている」

 徳恵から列車に乗った団員らは17日夕に新京(現長春市)に到着。旧陸軍官舎で難民生活を送り、引き揚げ手続きが済むと葫蘆島(ころとう)から米国のリバティー型輸送船に乗り込んだ。博多港に上陸したのは9月中旬だった。

 県満州開拓史によると黒川開拓団661人のうち202人が死亡し、再び古里の土を踏んだのは458人、未帰還は1人。多くは渡満前に資財を手放しており、引き揚げ後は困窮を極めた。

 黒川分村計画はわずか5年で幕を閉じた。(敬称略)

※本企画および関連記事は2018年4月24日から11月19日までの岐阜新聞に掲載されました。文中の日付、人物の年齢等は新聞掲載日時点のものです。