海原へ ぎふ財界人列伝 太平洋工業編
実用新案権で市場独占へ

2019年01月15日 18:10

  • ハンドプレスによる作業風景。工場の主力は女性社員だった=1940年代
  • 戦後初の乗用車「トヨペットSA」に採用された太平洋工業のホイールキャップ
  • バルブコアのブリッジ開発で取得した実用新案権の登録証

<海原へ ぎふ財界人列伝>

太平洋工業編(3)尺取り虫精神

 負けず嫌いで研究熱心な第2代社長小川宗一が胸に刻んだ経営理念は「尺取り虫精神」。その思いは目標に向かって一歩一歩、地道ながら常に前進することだった。

 宗一は機会あるごとにその精神を社員に分かりやすく説明した。「尺取り虫が縮むのは、次に伸びるため縮む。その縮み方は、後ろ向きでも消極的でもない。前向きに新しい前進に向かってのみ縮む」とアピールした。

 バルブコアは創業当初は補修市場に販売したが、数が限られていた。タイヤメーカーに売り込もうとしたが、自動車部品は輸入品がほとんどで、タイヤも例外ではなく米国のシュレーダー製品に押さえられていた。

 知恵を絞る宗一。良いバルブコアを作りたい一念から1936年、バルブコアの軸を固定させる頭部のブリッジ開発で実用新案権を取得した。この実用新案権が後発メーカーの進出を抑え、国内市場の独占へとつながった。品質が安定したことでダンロップに続き横浜ゴム、ブリヂストンからも注文がもらえるようになり、海外への輸出も年を追うごとに増加していった。

 事業拡大を考える宗一は41年、生産規模の拡大へ向け、取引のあった東京のバルブメーカー桜井自動車工器を吸収合併し、タイヤバルブとバルブコアの一貫生産体制を確立した。品質保持、価格安定にもつながり、年間生産能力はバルブコア700万本、タイヤバルブ50万本にもなった。

 戦後、国内の自動車生産は終戦の年、45年に連合軍がトラック生産を許可し、2年遅れで乗用車生産が再開した。もともと41年ごろからトヨタ自動車にはバルブやバルブコアなどを納入していたが、これをきっかけにトヨタ自動車との取引再開を働きかけ、46年には正式に協力工場となってバルブコアやリベット、ヒューズなどを納入した。

 さらに46年ごろからプレス事業も手がけ始めた。デフレ経済でトラック需要は伸び悩んだが、乗用車にはホイールキャップやサイドマークといった外装品が付くようになった。49年ごろからこれらの製品を納入するようになった。49年に発売された戦後初の乗用車「トヨペットSA」には太平洋工業のホイールキャップが採用された。

 他よりも一歩先んじるように、そして世界のモノサシで太平洋工業を見るように心がけ、事業拡大を続ける宗一だが、実現しなかったこともあった。43年、満州(現中国東北部)に密かに満州工場を建設する計画があった。生産量の30%を海外に輸出した実績があり、当時資本金85万円、売上高100万円の中小企業が独力で海外に工場を造るには壮大な計画だった。

 宗一は何度も現地視察し、用地取得の話も進んでいた。しかし満州鉄道高官だった愛知一中時代の同級生を頼って飛行機で渡満したころは、調査するも戦火が迫り、足止めを食いながら船で命からがら帰国。満州進出は幻となった。

 経営も戦争にほんろうされた。戦後のインフレ経済で経営が苦しくなり、48年の賃上げ闘争に始まった労働争議は、49年の人員整理、法廷闘争、全員解雇、工場閉鎖と泥沼化した。会社が元社員を再雇用して再スタートしたのは50年で、この2年は暗いトンネルを歩んだ。(敬称略)

【リーダーズボイス2019太平洋工業株式会社


過去の記事