笠松競馬場でラスト騎乗を終え、胴上げされる東川公則騎手

 ラスト騎乗を終えると、騎手仲間に胴上げされて喜びに浸った。笠松競馬でオグリキャップと同じ年にデビューした東川公則騎手(50)が、33年間のジョッキー人生のゴールを迎え、調教師に転身する。引退式で浮かべた涙は消えて、祝福の温かい輪の中で笑顔がはじけた。

 「ワッショイ」。のどかな笠松競馬場ならではのアットホームな雰囲気。第1コーナー奥のダートコースで、吉井友彦騎手会長ら笠松の15人、岡部誠騎手ら名古屋の4人に囲まれた。「バンザイ」のポーズで宙を4度舞った東川騎手、最後は軽く落とされてゴロリと着地。「お疲れさまでした」の声に、「ありがとうね」。長年、レースで熱戦を繰り広げてきた騎手たち一人一人と感謝の握手を交わした。





この日も2勝を挙げ、地方競馬通算2786勝を飾った東川騎手の活躍をたたえる笠松、名古屋のジョッキーたち

 「最後の落下で、あしたの攻め馬ができなくなるかも...」と苦笑い。「ゆっくり落とされたが、ちょっと怖かった。世話になった厩舎に『乗ってくれるか』と2頭ほどの攻め馬を頼まれていたんでね」。4月1日付で調教師になるまで、騎手としての仕事が残っていたのだ。
 

11Rのマーチカップでリッパーザウィンに騎乗。最後のゲートインに向かう東川騎手

 生え抜きでリーディングジョッキーに6回輝いた。笠松競馬だけで2000勝以上を挙げた名手といえば、安藤光彰・勝己兄弟、浜口楠彦さん、川原正一騎手がいるが、「笠松一筋」で引退まで全うしたのは東川騎手ただ一人。愛知県出身で、飾らず明るいキャラクターから「ブッシュ」の愛称で親しまれ、人望が厚く多くのファンに愛された。現役ラストデーも1R、6Rで2勝を積み上げ、地方競馬2786勝目(中央5勝)。マーチカップではゲートインする勇姿も見納めで、背中が寂しそうだったが、リッパーザウィンで8着ゴール。静かにステッキを置いた。
 
 レースは新型コロナウイルスの感染拡大防止策として無観客で、引退式も家族ら関係者だけで行われた。本来なら多くのファンに囲まれて声援が飛び交い、サインや記念撮影を求められて盛り上がったことだろう。愛馬ミツアキタービン(田口輝彦厩舎)での名勝負、笠松競馬の経営が最も苦しかった時期に騎手会長を6年ほど務め、存続・復興をけん引したジョッキー人生を振り返ってくれた。

 「すっきりしてます。やり切ったなあと。自分のなかではこのところ力が落ちてきて、股関節炎も患っていたからね。引退式では(最初は)感極まって涙があふれ、言葉が全部飛んじゃって、何も話せなかった。自分が一番下手くそだったが、後藤保先生に拾っていただき、攻め馬にもたくさん乗せてもらった。騎乗依頼も多くあって、いい競馬をさせてもらった」

「やり切った」。ジョッキー人生を全うした東川騎手

 1987年4月にデビューし、初勝利は23戦目。当時、人気のない馬でもよく2着までに突っ込んできて、「後方からすごく追える頼もしい新人が出てきたなあ」と注目し、応援していた。

 「(デビューした頃は)印が付くような人気馬に騎乗することは少なかったね。『穴の東川』と言われて、今がある感じですね」と。最後の1勝も東川騎手らしく7番人気馬での勝利となった。
 
 思い出の騎乗馬とレースはやはり...。

 「ミツアキタービンが一番で、欠かせない存在だった。フェブラリーS(2004年)に乗せてもらうことができ、中央GⅠという最高の舞台に立たせてもらった。ジョッキーみょうりに尽きるね」

 03年、JBCクラシック5着から挑んだ中京・香嵐渓特別を4馬身差圧勝。JRA初Vで、当時「すごく強かったですね」と聞くと、うれしそうな声が電話越しに聞こえてきた。フェブラリーSでは12番人気。好位2番手を進み、最後の直線では最内から伸びて先頭に並び掛けた。

 「残り200メートルでは先頭に立ったね。人気はなかったが、(パドックから)地下馬道を通っていると、上の方から『タービン、頑張れ』という声が聞こえてきた。知り合いでもなかったが、『地方馬を応援してくれているんだ』と感じた。力になりました」

笠松・ローレル争覇(2005年)を制したミツアキタービンと東川騎手

 結果は大健闘の4着。勝ったのはJRAのアドマイヤドンで、アンカツ(安藤勝己)さんが騎乗。ミツアキタービンは0.2秒及ばなかったが、大舞台で力を出し切った。
 
 「レース後はアンカツさんに『よく頑張ったなあ』と声を掛けてもらった。勝っても負けても、どのレースでも強い競馬をしてくれた。動じない馬で、こんな僕でも安心させてくれて落ち着きがあった。スタートも上手でつかまっているだけ。何も考えずに乗っていられた」

 圧巻のレースで、笠松ファンもしびれた。一瞬「中央のGⅠ制覇か」と大きな夢を見させてもらった。芦毛の馬体で「オグリキャップの再来」とも呼ばれた平成の笠松最強牡馬。フェブラリーS後には、ダイオライト記念(船橋)とオグリキャップ記念の地方・中央交流重賞(GⅡ)をともに1番人気で連勝した。  

 ダイオライト記念は5馬身差圧勝。2着イングランディーレは次走で天皇賞・春を制覇しており、この頃のミツアキタービンの強さを分かってもらえるだろう。続くオグリキャップ記念では「やりました、東川公則」の実況とともにゴールを1着で駆け抜けた。
 
 「武豊、和田竜二、松永幹夫騎手らが笠松に参戦し、(前年Vの)カネツフルーブが2着。ミツアキタービンが力をつけて強くなったので、アンカツさんも見にきてくれた。(JRA移籍後は)サダムクリスタルとかが僕に回ってきたが、『こんな乗り難しい馬をアンカツさんは乗りこなしていたのか』と驚かされた」

 騎乗ラストデーを迎えても、ミツアキタービンへの思いは強かった。

 「きょうで終わりだなあと思い、レース前にはタービンのDVDを見ながら『こういう時もあったなあ』と。盛岡・ダービーGP(3着)からオグリキャップ記念Vまでのレース映像を、自分でビデオ編集してたんでね。騎乗する自分の姿勢もきれいになっていって、当時のことはよく覚えている。タービンの手応えとか、乗っていて見えた景色とか全部が頭に入っている。東京のフェブラリーSでは、すごい観客だなあと」

「東川騎手、栄光と苦難の33年間」(3月21日付・岐阜新聞)

 笠松での引退レースやセレモニーは無観客になったが。

 「天気も良くて引退日和というか...。調教師、厩務員ら関係者の皆さんに感謝の気持ちでいっぱいです。一番は後藤保先生にお世話になったことで、支えてくれた嫁さんや子どもたちにも感謝したい。『お父さん、頑張ってね』の言葉がありがたく、騎手として一番力になった」

 騎手を引退し、調教師になる決断をしたのはいつか。

 「(昨年6月、期間限定騎乗で)高知に行く前かな。(息子の)慎が4月に騎手デビューしたが、まだいい馬には乗せてもらえないから。『自分の乗り馬を少しでも慎に回せたら』との思いがあった。調教師になって、今度はいい馬に乗せてあげる番かなあと」。引退式では花束を贈った慎騎手から「いっぱい乗せてください」とお願いされ、ほほ笑ましいシーンになった。
 
 ジョッキーとしての栄光とともに、騎手会長としての功績も大きかった。04年以降、笠松競馬では経営難から存廃問題が浮上。騎手や厩舎関係者は賞金・手当の大幅カットでぎりぎりの生活に耐えてきた。「賞金額は既に最低レベル。家族もいて、もうこれ以上は無理」と嘆いていた東川騎手。競馬場内外で先頭に立って尽力。ファンらに存続への署名などを呼び掛け。「単年度赤字なら即廃止」という厳しい条件をクリアするため、現場の底力を引き出し、現在の復興につなげた。

 「中京競馬場や駅前など街頭でもビラを配って、笠松競馬の存続を訴えた。うちの嫁さんも一緒にね。(廃止寸前から)よく復活してくれた。それでも今もレース賞金や手当は安い。騎手というのは華のある仕事だから、もっと待遇を良くしてほしい。もっと稼げるようにね。自分は辞めるけど、競馬の花形である乗り役さんを大事に扱ってほしい」

 お世話になった後藤保調教師は15年11月に亡くなられた。騎手から調教師に転身後、東海ダービーで2勝するなど通算1741勝。夫を支え、存続活動でも力を尽くした「笠松愛馬会」代表の後藤美千代さんは、「ブッシュはよく頑張った。レースでも仕事を守るんだと必死でした。騎手が好きで全うできたのは幸せなこと。調教師としても慎君を支えながら頑張ってほしいです」とエールを送った。

「お父さん、頑張ってね」と支えてきた東川騎手ファミリー

 調教師として新たな一歩を踏み出す。
 
 「(厩舎開業については)まだこれからで見当もつかないが、将来はミツアキタービンのような馬を育てて、他の競馬場に行っても活躍できる強い馬づくりをして、盛り上げたい。慎には、もっともっと勉強して腕を磨いてほしい」

 調教師デビュー後は、地道に所属馬を1頭ずつ増やしていきたい。大きな夢は親子で「第二のミツアキタービン」を育てることだろう。今年1月には「親子ワンツー」(慎君1着、父2着)を実現させたが、今度は調教師&騎手としてまず1勝、そして重賞Vを達成したい。お立ち台でインタビューを受ける2人の勇姿を、多くのファンに見せられるといい。「笠松競馬愛」にあふれた名手の新たな挑戦を応援していきたい。