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ミニチュア天守が立つ山頂から、晴れた日には金華山(正面奥)が目視できる。南麓に城下町(右手前)があり、三方を山に囲まれた谷の入り口には堀が設けられ「惣構(そうがまえ)」の造りだった=山県市、大桑城跡
記者独断の5段階評価

難攻不落度

「急峻(きゅうしゅん)な地形を利用した強固な防御ライン。弱点は北側か」


遺構の残存度

「巨石を使った城門跡のほか、石垣も複数点在する」


見晴らし

「頂上は伊吹山や金華山などを望む180度の大パノラマ」


写真映え

「山頂からの景色とミニチュア天守が人気スポット」


散策の気楽さ

「麓からは1時間超、中腹からは20分ほど。急勾配もあり足元に注意を」


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古城山(手前)山頂一帯に大桑城があった=2020年11月、山県市(本社契約ヘリから)

 大桑(おおが)城は、濃尾平野の北端・山県市の古城山(こじょうざん)(407・5メートル)山頂一帯にあった。守護大名土岐氏が1535年ごろ、長良川の洪水で被害を受けた枝広館(岐阜市長良公園付近)に代わる新たな守護所として整備し、本拠とした。40年代に、家臣の斎藤道三との間で大規模な戦いがあり、落城したと伝わる。道三の「国盗(と)り」の象徴ともいえる地だ。

 登山口は、南麓と東側の中腹の2カ所。道沿いに遺構が点在する麓ルートで"攻略"に向かった。

 急斜面を横目に、つづら折りの道を50分ほど登ると「岩門」と呼ばれる城門跡に到着した。複数の巨石と石垣によって門が形成されていたことが、昨年の調査で分かってきた。さらに登って尾根に出ると、狭い稜線(りょうせん)の両側に複数の竪堀、堀切(ほりきり)が設けられている。鎧(よろい)を身に着けた道三軍の兵はどう駆け上がったのだろうか。戦死骨は6万に及んだとの伝承もあり、壮絶な戦いだったことがうかがえる。

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「岩門」と呼ばれる城門跡。市の調査で、複数の巨石と石垣がコの字形に配置されていたことが分かってきた。積雪する冬は足元に注意したい

 険しい南側に比べ、緩やかな北側の谷筋には階段状に曲輪(くるわ)の跡が残り、複数の建物があったとみられる。城郭跡の各所で石垣も確認できる。

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山頂にはミニチュア天守が設置され、写真映えスポットとして人気を集める

 頂上では濃尾平野の絶景が一望でき、1時間以上掛かった登山の疲れを忘れさせる。高さ約3メートルのミニチュア天守が立ち、「写真映え」スポットとしても人気だ。金華山山頂に豆粒ほどの岐阜城天守が見えた。距離にして約15キロ、遠いようで近い大桑城と岐阜城。最後の守護となった土岐頼芸は、ここから稲葉山(岐阜)城を見つめ、台頭する道三の動きに目を光らせていたのだろうか。美濃に迫る"乱世の風"を感じていたに違いない。

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【攻略の私点】道三も苦戦?強固な防御ライン

山県市教育委員会文化財調査室 高木晃室長

 土岐氏"最後の城"となった大桑城。在りし日の姿について、山県市教育委員会文化財調査室の高木晃室長(48)に聞いた。


 とにかく守りが強固という印象。岐阜城側である南側と、東側は自力で登れないほど急峻(きゅうしゅん)。そこに複数の竪堀を造り、尾根線には堀切を設置するなど地形をうまく使って防御ラインを築いている。南から攻めても城郭本体にたどり着くことは難しそうだ。

 もし攻めるならば「北側から」という発想になるが、守る側はそこに兵力を結集するはず。そうなると、北からの突破も簡単ではないだろう。斎藤道三も攻め落とすのに相当な苦労をしたはずだ。

 巨石を使った城門は、越前朝倉氏の「一乗谷」にも見られる構造。守護としての権威を示し、まだまだ美濃を治めていくという土岐氏の気概が感じ取れる。

 道三との戦いで落城した後に大きな改変を受けた形跡が見られないため、戦国時代の空間がそのまま残された城跡といえるのではないだろうか。