最大で高さ7メートルを超える石垣が圧巻の飛騨を代表する山城の松倉城跡=高山市松倉町城山.jpg

最大で高さ7メートルを超える石垣が圧巻の飛騨を代表する山城の松倉城跡=高山市松倉町城山
記者独断の5段階評価

難攻不落度

「堀切(ほりきり)や曲輪(そとぐるわ)で防御度は高い。落城時の石垣完成度によっては難攻不落度アップ」


遺構の残存度

「最高7メートル超の石垣は圧巻。高山市が本丸の構造や礎石を調査中」


見晴らし

「北アルプスの眺望は絶景。本丸跡には山の名称を書いた解説板も」


写真映え

「三の丸から本丸へと続く石垣はもちろん、本丸跡からのパノラマなど〝映え〟抜群」


散策の気楽さ

「麓から山頂まで約1・2キロ、所要約30分。ただし、至る所に『熊出没注意』の看板あり」


 やや急峻(きゅうしゅん)な登山道を上がって堀切(空堀)を過ぎると突如、眼前に巨大な石垣が現れる。松倉城(高山市松倉町城山)の象徴とも言える最高7メートル超の石垣は謎に包まれている。石垣は三の丸から本丸外曲輪、本丸へと続き、戦国飛騨終焉(しゅうえん)の城という感慨も相まって、400年以上の時空を超えて現存する石垣群に心躍る。

 松倉山(856メートル)の麓の観光施設「飛騨の里」から歩いて約30分登ると、山頂に松倉城跡がある。築城主は、戦国飛騨を統一した三木自綱(みつきよりつな)というのが定説。その3年後、金森氏に敗れて覇権を失う。三木氏の出自は南飛騨とされ、北進に伴って桜洞城(下呂市萩原町)から新たな拠点として松倉城を築いたという。

本丸跡に立つ県史跡の標柱。北アルプスの山並みが一望できて絶景.jpg

本丸跡に立つ県史跡の標柱。北アルプスの山並みが一望できて絶景

 築城は1579(天正7)年といわれ、同時代史料に近いとされる『飛州三澤記』に「自綱天正七年卯四月、高原ノ江馬ヲ討亡シテヨリハ弥(いよいよ)威勢ヲ国内ニ振ヒ、松倉ニ居城ヲ築キ住ス」とある。学芸員で飛騨安国寺住職の堀祥岳さん(44)=高山市国府町西門前=は、新宮神社(同市新宮町)所蔵の熊野本宮再興棟札の裏面に天正7年に「飛騨国松倉城鎮護」とあることを指摘。「表面の記述から熊野本宮の再興が66(永禄9)年になり、天正7年の松倉城築城に当たり鎮守としての性格が付与され、棟札が作成されたと考える。天正7年築城は史実と見られる」と話す。

山頂の二の丸跡にある旗立石と称される巨岩.jpg

山頂の二の丸跡にある旗立石と称される巨岩

 問題は石垣だ。現存する石垣がいつ建造されたか、同時代史料が存在しないため議論が分かれる。石垣は、三木氏が当初から築いた、三木氏が基礎を築き金森氏が増築した、元々は土城で金森氏が石垣を築いた、など諸説ある。

 戦国飛騨は85(天正13)年に松倉城が落城し、終焉したとされるが、三木氏と金森氏の合戦の詳細も同時代史料はない。後世に書かれた軍記物の「飛騨国治乱記」などには、難攻不落だったが家臣の裏切りによって内部から火が付けられ落城したと伝わる。創作や脚色が大いに疑われ、戦国飛騨象徴の城は落城のその瞬間まで一切が謎だ。

 だが、この満ちあふれた謎こそが現存する見事な石垣群の魅力、戦国ロマンを一層、高めているに違いない。

松倉城地図.jpg

【攻略の私点】高い防御度、新発見に期待

 圧巻の外観と裏腹に謎多き飛騨を代表する石垣の山城・松倉城。高山市では県史跡から国史跡への指定を目指し、初の本格調査を実施している。担当の市文化財保護係長の押井正行さん(53)に特徴を聞いた。

 調査では石垣の歴史的価値を中心に本丸の構造や、礎石を調査している。昨年度は本丸と外曲輪にトレンチ(調査溝)を掘り、本年度は城の玄関に当たる虎口(こぐち)を調査中。礎石が見つかれば、構造物についての推定もできると思う。

国史跡指定に向けて調査が進む本丸跡.jpg

国史跡指定に向けて調査が進む本丸跡

 全容はまだ分かってはいないが、いくつもの攻め口に堀切や曲輪の跡が見られ、防御度としてはかなり高いと思われる。もちろん肝心の石垣の有無により、防御度は全く異なるが、いつの石垣なのか同時代史料がなく不明。新たな発見が期待される。

 だが、これだけ素晴らしい石垣が現存していることは事実。天気が良ければ、本丸跡から北アルプスの山々が一望でき、絶景。ぜひ多くの人に足を運んでもらい体感してほしい。