難攻不落度
「切り立った山に築かれ、正面側は入念な曲輪配置」
遺構の残存度
「各所に石垣や柱の礎石。破城の痕跡は見どころの一つ」
見晴らし
「出丸跡の駐車場と、頂上からはかつての支配地が見渡せる」
写真映え
「景色や石垣など。出丸跡の石垣は〝映えスポット〟か」
散策の気楽さ
「出丸跡駐車場への道は狭いので運転には注意を。麓にも駐車場があり登山道が整備されている」
静寂の森の中、人為的に崩された石垣が残る。美濃金山(かねやま)城(可児市兼山)は、関ケ原の戦い後に廃城となり、400年以上たった今も、戦国末期のまま時が止まったかのようだ。
金山城は、一帯に勢力を誇った森氏の本拠として知られる。織田信長の小姓として有名な森蘭丸(乱丸)も歴代城主の一人。1537年、斎藤道三の養子とも伝わる斎藤正義(妙春)によって築城された。1565年、蘭丸の父・森可成(よしなり)が、信長の美濃侵攻に伴い入城。以降は信長の東美濃支配の拠点として機能した。
斜面に突き出た出丸跡(現在は駐車場)から眼下を望むと、かつての明智荘が広がる。奥の丘陵には明智光秀ゆかりの明智城跡。本能寺の変で対峙(たいじ)することになる光秀と蘭丸は、その"ふるさと"もわずか6キロほどの距離で対峙していた。
城郭跡へと進むと、斜面には人工的な切り岸が広がり、階段状に三の丸跡、二の丸跡などの平場が連なる。建物はなく各所に石垣や柱の礎石が残るが、一部の石垣は上端や隅が崩されている。廃城後、意図的に城を壊した「破城(はじょう)」の痕跡だ。
山頂の本丸跡に至る道筋には、三方向を石垣で囲んだ「枡形虎口(ますがたこぐち)」が侵入者を立ちふさぐ。
山頂にある本丸跡からは、石垣や礎石のほか、瓦や茶陶器なども出土しており、御殿といった居住用の建物もあったようだ。標高約275メートルからは、北西側に兼山の城下町と木曽川、正面の南西側には可茂地域が見えた。中山道が通り、木曽川と合わせて陸水上交通の要衝だったからこそ、ここに城があったのだ。"支配者"としての威容を誇っていたであろう往時の城の姿に思いをはせた。
国史跡にも指定されている美濃金山城。その強みや見どころについて、可児市文化財課の松田篤さん(47)に解説してもらった。
当初は中世の「土の城」として築かれ、後に森氏が「石垣の城」に改修した。石垣や礎石が非常に良い状態で残っており、関ケ原の戦いより前の時代の「織豊(しょくほう)系城郭」の特徴を今に伝えている。
城の背面は切り立った崖で、城下町との比高差は約180メートル。ここを攻め上がるのは難しいだろう。さらに、木曽川が堀の代わりの役割を果たしている。
正面側は入念に曲輪(くるわ)が張り巡らされ、要所には虎口が設けられている。非常に強固で技巧的な構造。森氏の技術が反映された当時の標準以上の造りで、容易には突破できないはずだ。ただ、当時は森氏が強かったため、城に攻め込まれるという事態はなかった。
戦国期の終わりとともに廃城となって、城が破却された状態のままタイムカプセルのように残った城。在りし日の様子を想像しながら散策を楽しんでもらいたい。