手前に露出して点在する礎石はじめ居館跡が発見された小鷹利城本丸跡。戦国初期の山城の概念を変えた=飛騨市河合町稲越.jpg

手前に露出して点在する礎石はじめ居館跡が発見された小鷹利城本丸跡。戦国初期の山城の概念を変えた=飛騨市河合町稲越
記者独断の5段階評価

難攻不落度

「北方に備えた十数本の畝状空堀群(うねじょうからぼりぐん)はじめ堀切(ほりきり)、虎口(こぐち)へ至る道が直角、本丸から攻め手が丸見えなど難攻」


遺構の残存度

「建造物はないが、礎石跡や畝状空堀群、堀切などが残り、山城の醍醐味(だいごみ)が満喫できる」


見晴らし

「木が至るところに茂り、眺望を妨げている」


写真映え

「最大の特徴の畝状空堀群は写真では判別しづらい」


散策の気楽さ

「地元住民が飛騨古川ふれあい広場からの登山道を整備し、所要約40分で本丸に到着」


 山城は戦時施設、住居化したのは戦国末期という戦国史の常識を覆す大発見の舞台となった飛騨市河合町稲越の小鷹利(こたかり)城。戦国初期(16世紀初頭)と推定される山城の主郭(しゅかく)部分に、屋敷跡の礎石(柱を支える石)が見つかった。

飛騨市の山城では規模、数とも最大の畝状空堀群.jpg

飛騨市の山城では規模、数とも最大の畝状空堀群

 2019年、市の調査で現れた礎石は、3間(5・4メートル)×8間(14・4メートル)。さらにL字形状に2間(3・6メートル)×5間(9メートル)が連なる曲屋(まがりや)構造。突き出した部分は厩(うまや)と見られ、飛騨と同じく雪深い東北地方の居館で見られる構造という。戦国中期までの山城は戦があった時に立てこもる防御施設で、普段の居住は平地というのが常識だった。山の上の小鷹利城に、人が住む居館があったことは衝撃の事実だ。

小鷹利城の復元イラスト(向氏の時代、飛騨市教育委員会).jpg

小鷹利城の復元イラスト(向氏の時代、飛騨市教育委員会)

 小鷹利城に関する文献史料はないが、居住者は飛騨国司家・姉小路(あねがこうじ)氏の向(むかい)家(別名・小鷹利氏)と考えられている。姉小路氏は史料に初めて飛騨国司として登場する家綱の以降、小島、古川、向の3家に分流したとされる。

 小鷹利城は極めて優れた防御性を備える。居館跡の本丸北西部分には、長さ約20メートルの畝状空堀群が十数本連なっている。向いている方向が白川郷から富山県方面なのは、古川家の名跡を継いで飛騨を統一した三木(みつき)氏が、北から攻めてくる金森氏に備えて建設したからとみられる。飛騨市内の山城の畝状空堀群の中では規模、数ともに最大。

小鷹利城の復元イラスト(最終段階、飛騨市教育委員会).jpg

小鷹利城の復元イラスト(最終段階、飛騨市教育委員会)

 さらに五つの登城道に空堀を設け、山頂から一目瞭然で討ち取れる。虎口(城の入り口)には直角に曲がらないとたどり着けず、仮に近づかれても本丸からの攻撃は容易。地形を最大限に活用している。

 飛騨市は、姉小路氏の五つの山城を群として国史跡指定に向けて調査し、結果を年度内にまとめる計画。山城群は姉小路から三木、金森へと変遷する戦国飛騨史を解明する貴重な生きた史料。中でも小鷹利城は新発見や魅力にあふれた必見の山城だ。

小鷹利城地図.jpg

【攻略の私点】「生の遺跡」当時の鼓動感じる

 市内五つの山城を群として国史跡指定を目指す飛騨市。中でも山城の歴史を覆す小鷹利城の魅力を飛騨市教育委員会学芸員の大下永(ひさし)さん(35)に聞いた。

 天守閣こそ城の醍醐味という城の楽しみ方は、残存の構造物や復元した建築物がなくても、堀切や畝状空堀群などを見つけ出して散策する楽しみへと変わってきた。生の遺跡をそのまま楽しめる小鷹利城は、当時生きていた人の思いや鼓動を実感できます。

虎口付近の広場。ようやく虎口に侵入できても本丸から攻撃を受けるとひとたまりもない.jpg

虎口付近の広場。ようやく虎口に侵入できても本丸から攻撃を受けるとひとたまりもない

 それぞれの登城道に配置された堀切や直角に曲がらないと虎口にたどり着けない構造、北方からの攻撃に備えた畝状空堀群など地形を最大限に生かし、高度な防御技術が駆使されています。攻め手の気持ちで登ると上から容易に矢で射られてしまうことに気づくし、逆に守り手の気持ちで見下ろすと敵が丸見えで防御度の高さが分かります。

 地域の歴史をひもとくことは、ひいては日本の歴史を見つめ直すことにつながります。そんな小鷹利城の魅力を満喫してください。