【土岐市駅】駅員や車掌務めた東鉄OB 人生は駄知線と共に

2018年08月28日 09:13

「今も電車に乗ると乗務員の様子が気になる」と話す水野耕二さん=土岐市駄知町、自宅

「今も電車に乗ると乗務員の様子が気になる」と話す水野耕二さん=土岐市駄知町、自宅

 美濃焼の原料や製品を輸送するため、かつて土岐市内を走っていた駄知鉄道。1924年に全面開通し、市中心部の土岐津駅(現JR土岐市駅)から郊外の東駄知駅までの延長10・4キロを結び、44年には東濃鉄道駄知線となり活躍した。車掌や駅員として働いた水野耕二さん(86)は「人も荷物も多くてとにかく忙しかった」と振り返る。

 水野さんの父は下石駅の駅長だった。駅近くの社宅に家族で暮らす中、太平洋戦争が勃発。戦況の悪化に伴いガソリンで走っていた車両は蒸気機関車に。駅員や車掌も女性の割合が高くなり、水野さんの父も出征した。水野さんが中学1年生の時、父の訃報を知らされた。社宅を退去しなければならなくなり、水野さんは家族のため入社を決意した。46年7月、14歳の時だった。

 入社後は下石、駄知駅の駅員として約5年間勤務。車掌を10年ほど務め、土岐津-東駄知間を往復する日々が続いた。土岐津駅で荷を積み降ろし、多くの陶器などを全国へ送り出した。50年に電化されると、旅客運送も増え活況を呈した。「通勤や通学の時間帯は4両編成で運行したが、満員だった」

 72年7月、東濃地方を集中豪雨が襲い、土岐川に架かる鉄橋が流失。全線運休となり、水野さんも対応に追われた。当初はバスの代行輸送が行われたが、復旧することなく2年後に廃線となった。

 駄知線で働いていた社員はバスの洗車業務などに回った。水野さんは当時42歳。運送の仕事が忘れられず、バスの運転手になろうと決意。9回目の試験で免許を取得し、定年までハンドルを握った。

 水野さんは「(土岐市駅の駅舎は)当時の面影も少なからず残っている。この先も変わらず、今の場所にあってほしい」と願う。

 岐阜新聞社は「地方創生~チカラは地から~」をテーマに、県内各地で移動編集局を展開している。第4弾は東濃5市の魅力を伝える。

 美濃焼、地歌舞伎、山城、地酒、そして近未来のリニア中央新幹線―。山々に囲まれた東濃地域は、豊かな自然が育んだ歴史や伝統、ものづくり、食が多彩な輝きを放ち、多様な文化が交差する「宝箱」だ。