1981年選手権で、13年ぶり、2度目の甲子園出場を果たした岐阜南(現岐阜聖徳)。3番打者として本塁打も放った、現岐阜聖徳監督の棚橋祐司さん(61)に思い出を聞いた。

 2024年は、高校野球の聖地・甲子園球場が開場して100周年を迎えます。岐阜新聞電子版で毎週木曜日に各年の感動を当時の紙面と主力選手インタビューで振り返る「甲子園100年ぎふ」を連載中。そのインタビュー記事をWebで紹介します。電子版はこちらから。「媒体」で「ぎふ高校野球」を選択してください。
岐阜南13年ぶりの甲子園出場で本塁打も放った3番で現監督の棚橋祐司さん=岐阜聖徳学園室内練習場
 棚橋祐司(たなはし・ゆうじ) 1963年、各務原市生まれ。内野手。社会人野球の王子製紙春日井(現王子)で10年間プレーし、コーチを経て2001年に監督就任。04年の第75回都市対抗大会で初優勝に導き、08年の同大会準優勝を最後に退任。社会人日本代表のコーチとして17年のアジア選手権優勝や18年のアジア大会準優勝などを経験。20年から母校の岐阜聖徳学園高監督を務める

 ―13年ぶりの甲子園、どんなチームでしたか。

 棚橋 自分たちの代は3年計画でいい選手が集まった。後に社会人野球の新日鉄名古屋(現日本製鉄東海REX)で都市対抗野球の通算最多本塁打記録をつくる4番で捕手の杉山孝一も同じ各務原市出身で一緒に入学した。自分は投手で入学直後からエースで杉山とバッテリーだった。夏に3回戦では県岐阜商に0―1で敗れ、ベスト16。秋の大会で現在の中京監督の藤本(貴久)さんの中京商にコールド負けし、投手をあきらめた。外野手に回ったが監督に内野手にしてほしいと頼み、一塁手になった。2年の夏は初戦敗退だったが、3年の夏は決勝で県岐阜商と対戦、五回に三塁打を打ち、杉山のスクイズで同点にするなど3―2の接戦で、甲子園を決めた。

 ―初戦は智弁学園に6―1の快勝。

 棚橋 開幕試合だった。でも、緊張することはなかった。試合前にテレビに映ろうと、みんなが必要以上にキャッチボールしにベンチから出た。そんなチームだった。逆に相手は緊張していて、1番矢島(英治)のライトライナーをエラーしたのが大きかった。送って1死三塁で、打席は3番の自分。こんな晴れ舞台でスクイズなんかしたくない。...